三国志前半の華といえば呂布です。張飛、劉備、関羽の三強と一人で互角に渡り合いました。
その桁外れの強さから呂布や赤兎馬ばかりが有名ですが、彼にはどんな部下がついていたのでしょうか。ここではナンバーツーと称される臧覇を紹介していきます。
呂布の部下のシステム
臧覇は張遼と並ぶ呂布の部下です。呂布が部長なら、臧覇は”課長”。ナンバーワンの張遼も課長です。
呂布の部下は8人おり、2人の課長の下に3人ずつの社員がいるピラミッド組織でした。呂布カンパニー = 1(呂布) + 2(張遼、臧覇) + 6
トップダウン方式が三国志の時代にすでにできあがっていたのです。いわば9人の少数精鋭が率いた核弾頭のような一団だったと言えるでしょう。
臧覇、徐州で兵を勧誘
徐州は現在の江蘇省や山東省の辺りを指します。長江の北側で近くに「昭陽湖」という湖があります。江蘇省自体は黄海に面していますが、徐州は内陸でした。
黄巾の乱で黄巾賊を打ち破ると臧覇は徐州で兵を募集します。当時の徴兵方法は現地調達が一般的。戦が起こるとそのエリアに住む腕利きを審査して、採用します。
そして、臧覇は開陽をホームグラウンドにして独立します。「開陽」の近くにいた呂布は当時を振り返り、臧覇と袁術に挟まれた形となっていることを憂慮しています。呂布にも怖いモノがあったのです。
呂布と同盟関係に
西暦197年、蕭建を臧覇が打ち破ります。この蕭建という人物、実は呂布の息がかかっていました。
つまり、ここで臧覇と呂布とが敵対関係になるのです。進軍をしようとする呂布を高順は止めに入りますが、彼は聞く耳を持ちません。
その呂布軍を撃退した臧覇。さらに自信をつけます。
そして、両者はほどなく和解、同盟関係を結びました。
曹操との出会い
翌、西暦198年。曹操軍が呂布を攻撃します。呂布の味方として進軍した臧覇。
同盟関係にあった呂布が捕らわれ、斬首されると身をひそめます。曹操軍がよほど手ごわかったのでしょう。
ここで引き下がらないのが曹操、臧覇の首に懸賞金までかけハントを開始します。まるで西部劇のお尋ね者状態となった臧覇は、ついに曹操の手に落ちます。
ところが奇妙なことに曹操は臧覇に会うと彼をいたく気に入ります。部下の孫観たちも一緒にどうかとパーティーに招くと曹操に下り、臧覇とともに位を与えられるのです。
人生とは実に妙なものです。懸賞金をかけられていた臧覇は、”琅邪国相”の地位と青州および徐州の統治まで任されます。
威虜将軍に出世
西暦205年、袁譚を打ち破った曹操。臧覇をパーティーに招待します。理由は臧覇が統治していた青州や徐州を治めてくれたことへの感謝です。
あの”官渡の戦い”で曹操が袁紹と思う存分に戦えたのは、臧覇が青州を抑えてくれたからだったのです。以前から、曹操は彼を労いたかったのでしょう。この時の宴で臧覇を都亭侯にし、”威虜将軍”の名まで与えています。
将軍と名のつく異名を与えられることは曹操配下の五本の指に入ったといっても過言ではありません。
孫権軍を張遼とともに征伐
西暦209年、曹操に異を唱えた武将・陳蘭がいました。彼は呉の孫権と結び、曹操軍とにらみ合います。そこで白羽の矢が立ったのが臧覇と張遼。
張遼は呂布時代に臧覇とともに戦った仲です。相性は抜群でした。
孫権は陳蘭を救うべく出立しますが、臧覇が”皖城”に入ったため救出困難となります。一度、撤退した孫権は川から水軍を使って攻撃。しかし、臧覇はこれを見事、挟み撃ちにし、孫権はついに後退するのです。まもなく張遼が陳蘭を討伐、戦いの幕が下ります。
曹丕の軍事顧問になる臧覇
西暦220年。曹操がついにこの世を去ります。
後を継いだのは曹丕。曹操の子どもです。
初代魏王の曹丕ですが、臧覇を快く思っていませんでした。理由は曹操が死去したとき、彼の部下が勝手に持ち場を離れたという”青洲事件”に起因します。側において監視しようと曹丕は臧覇を軍事顧問として王宮に住まわせるのです。
曹叡の時代の臧覇
西暦226年。曹丕がこの世を去ると曹叡が魏王朝を継ぎます。臧覇はまだ生きています。資産を3,500戸にまで増やしてもらうとほどなく死去します。臧覇の後継者には息子の臧艾が選ばれるのです。
三国志ライター上海くじらの独り言
こうして俯瞰してみると名の通った武将より軍師的存在の臧覇の方が長生きしています。「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」と言われますが、権力者はストレスが多かったのでしょう。二代目魏王の曹叡は34歳で命を落としています。
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