三国時代の貴族や王様、皇帝などはお墓にいろいろな装飾品などを入れていました。
例えば三国志の英雄・曹操のお墓には、白磁と呼ばれる物が入っています。では三国時代の武将・朱然のお墓には一体何が入ってるのでしょうか。
「三国志武将紹介」朱然って一体どんな人!?
朱然のお墓には何が入っていたのかを紹介する前に、彼がどのような人物であったのかをここでサクッと紹介しましょう。朱然は三国時代の呉の武将です。彼は朱治の姉の子供でしたが、朱治に子供がいなかったため、養子として朱家へやってきます。
朱然は朱家の養子になった後、孫権と良好な関係を築き一緒に勉強や武術を学びながら、互いを高め合っていたそうです。朱然は青年へと成長すると孫権から県長や各地の太守を歴任。朱然はしっかりと内政を行い、文官としての能力の高さを見せます。
朱然は内政官としての能力だけでなく、軍事面での能力も優れており異民族討伐で功績を挙げます。また朱然は関羽討伐戦で関羽を捕虜にしたり、夷陵の戦いで劉備軍の先鋒を打ち破っています。
朱然は他にも魏の文帝時代、曹真や夏侯尚らの将軍が江陵城へ攻撃してきた際、少ない兵士と共に江陵城に籠城して魏軍を退ける戦功を挙げています。このように朱然は軍事・内政ともに優れた才能を見せ、孫呉の重鎮として活躍。
孫権は陸遜・諸葛瑾など歴戦の武将達が居なくなると、朱然に色々な心配りをするようになります。例えば孫権は朱然が病気にかかると食物や医療品などを届けたり、寝れなくなるほど心配していたそうです。
しかし朱然も病に勝つことはできず、68歳で亡くなってしまうのでした。上記で朱然の事をサクッと紹介しました。ここからは朱然が亡くなった後、彼の遺体を納めたお墓にはいったい何が入れられていたのかを紹介したいと思います。
朱然のお墓には何が入っていたの!?
さて朱然のお墓にはいったい何が入っていたのでしょうか。朱然のお墓からはまず脇息と呼ばれるものが入っていました。脇息とは座った時に肘をもたれさせる物です。旅館に宿泊したことがある方は一度は見たことある品物だと思います。
朱然が脇息を使っていた事から、彼が座って生活し脇息にもたれかかって、配下の武将達と歓談していたのかもしれません。さて次に朱然のお墓から出てきた物は王侯貴族たちが宴会をしている様子が描かれている漆器が見つかったそうです。
この漆器には孫権らしき人物が描かれているそうです。「はじめての三国志」の読者の皆様は、中国へ行くチャンスがあればぜひ朱然の墓でこの漆器を見て見るのもいいかもしれません。
朱然の墓からはなんと●●も!
朱然のお墓の中からは日本の伝統的な履物として有名なあれが出土したらしいのです。
それは下駄です。
なんと朱然の墓から下駄が出土されたそうです。
と言うことは孫呉の名将・朱然も下駄を履いて、外を出歩いたり馬に乗っていたのでしょうか。また朱然が夷陵の戦いなどの戦で、下駄をはいて出陣していたのかもしれません。
このように朱然のお墓からは色々な物が発見されているので、興味がある方はぜひ一度覗いてみてはいかがでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
朱然の墓は安徽省馬鞍山市にありますが、朱然の墓がどのような経緯で見つかったのでしょうか。朱然の墓が見つかった経緯はたまたまです。
安徽省の紡績会社が工場の拡張工事をしていたら、たまたまお墓らしきものが見つかり、研究チームに依頼した事がきっかけで朱然の墓と判明したそうです。そのためこの紡績会社が拡張工事をしようとしなければ、朱然の墓も見つかることなく、地中に埋もれている状態だったかもしれませんね。
■参考 正史三国志呉書など
▼こちらもどうぞ