三国志といえば「三国志演義」のストーリー展開が有名ですが、その原典は「三国志正史」です。三国志正史を編纂した陳寿(ちんじゅ)は、呉の大黒柱である陸遜(りくそん)をどのような人物であると評価したのでしょうか?今回は、陳寿と陸遜についてお伝えしていきます。
陳寿の葛藤
まずは陳寿ですが、蜀の生まれで劉禅(りゅうぜん)に仕えていましたが、魏に滅ぼされ、浪人となった後に晋に仕えています。
晋に仕え出し、280年以降から三国志の編纂を始めたとされていますが、当初は「私撰の書」でした。陳寿が編纂した三国志は、感情に左右されることなく、公平であるために高い評価を受けていました。それが唐の代に太宗(たいそう)に認められて、「正史」に認定されたのです。
魏・呉・蜀の三国のうちどれが正統な国家であるのかは、立場によって言い分が違いますが、晋に仕える陳寿としては晋の前身である魏を正統とせざるを得ません。しかし、ここで陳寿は、己の故郷である蜀にも正統性を残しています。蜀書の最後に「季漢」、すなわち後漢の後継者という記載をしたのです。
陳寿の三国志の構成
陳寿が編纂した三国志は「魏書」「呉書」「蜀書」に分けられます(他の人が編纂した史書と混同されるので、魏志・呉志・蜀志とも呼ばれます)。
魏書は30巻、呉書は20巻、蜀書は15巻という構成です。基本的には「関張馬黄趙伝」のように、1巻につき複数の伝が記されていますが、曹操(そうそう)や曹丕(そうひ)、曹叡(そうえい)、孫権(そんけん)、劉備(りゅうび)、劉禅といった主役格の君主は単独の伝が編纂されました。
ただし例外があり、諸葛孔明(しょかつこうめい)と陸遜だけが、臣下の身分でありながら単独で伝をたてたれています。つまり陳寿は、諸葛孔明と陸遜だけは、曹操や劉備に匹敵する英雄だと認識していたわけです。
陳寿は陸遜の「戦略」を高く評価した
陸遜といえば、222年の「夷陵の戦い」で劉備の主力を打ち破ったシーンが印象的です。これに対して陳寿はこう述べています。「劉備は英雄としてその名がとどろいていたが、陸遜は名も知られていなかった。しかし、陸遜は劉備を打ち砕いて、終始、思い通りにことを進めた。その戦略は非凡なものである」
確かに経験豊富な劉備に比べて、陸遜はその統率力すら味方に疑問視されていたほどです。それが、孫策(そんさく)以来の宿将や、王族の不満を抑えながら、我慢に我慢を重ね、好機を逃さず反撃に転じて勝利を掴んだわけですから、その手腕は見事なものです。
陳寿は陸遜の「忠義」を高く評価した
陳寿はもちろん、陸遜の才能を見抜いた主君である孫権の眼力も褒め称えています。そして更に、そんな孫権にどこまでも忠誠心を尽くし、一命を賭してまで国を憂いた陸遜の忠義を高く評価し、「社稷(しゃしょく)の臣と呼ぶにふさわしい」と述べています。
雑学になりますが、「社稷の臣」とは、「論語」に記されている故事成語で、国家が危急存亡にあって、その危機を一身に引き受けて、ことに当たる国家の重臣のことです。まさに夷陵の戦いは、危急存亡の秋でしたから、陸遜にはピッタリですね。228年には石亭の戦いにおいて、魏の曹休(そうきゅう)の大軍を策略によって破っています。陸遜は自分の命をかけて何度も国を救った英雄なのです。
三国志ライターろひもとの独り言
実際のところ、夷陵の戦いはそれだけのインパクトを与えていたということでしょう。蜀では、馬良(ばりょう)をはじめとして多くの武将や文官が戦死したのです。一度の敗戦でここまで多くの人材を失うことは珍しいといわれています。
まさに劉備にとって生涯で最も多くの犠牲者を出した大敗だったということでしょう。陳寿は大敗後の、劉備から諸葛孔明への遺言の場面を「君臣の至高」と評しています。劉備や諸葛孔明を高く評価する以上、陸遜もまた同時に同じような評価をせざるを得なかったのかもしれません。大軍を率いる劉備を倒したことで、陸遜の株がかなり上がったことは間違いないようです。
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