三国志の中でよく詩を詠む人といえば、真っ先に思い浮かぶのが曹操。曹丕、曹植、王粲なんかも詩人のイメージがありますね。一方、全然詠みそうもないのが劉備。三国志演義の中では、劉備を陥れようとした蔡瑁が劉備の宿舎の壁に不遜な内容の詩を書き付けて、これを劉備が書いたのだと主の劉表に告げ口する場面があり、劉表は “劉備が詩なんて詠むわけないじゃーん”と告げ口を退けています。
こんな文才ゼロキャラの劉備ですが、三国志演義より昔に書かれた「三国志平話」の中ではいくつも詩を詠んでおり、なかなか能弁です。
不遇の時に思わず口からこぼれ出た一首
「三国志平話」には劉備の詩や文章がいくつも出てきまして、いずれもなかなか能弁です。詩を詠む情景の中で最も美しいのは、流浪の最中に身を寄せた袁譚のところで軍勢を借りることができず、失意の中で一人酒をしていた夜、ため息のように口からこぼれ出た一首です。
【原文】
天下大乱兮黄巾遍地
四海皇皇兮賊若蟻
曹操無端兮有意為君
献帝無力兮全無靠倚
我合有志兮復興劉氏
袁譚無仁兮嘆息不已
【書き下し文】
天地大いに乱れ 黄巾地に遍し
四海皇皇として 賊 蟻のごとし
曹操端無く 君たらんとするの意あり
献帝力無くして 全く靠倚するなし
我まさに志ありて 劉氏を復興せんとす
袁譚仁なく 嘆息やまず
この詩、ちょっとおかしいですね。「献帝」なんて書いてありますが、このときの皇帝が崩御した後の諡号が孝献皇帝、略して献帝なので、まだ在位中なのに献帝という呼び方はありえません。それに、劉備が興した蜀では、この皇帝に対しては独自に孝愍皇帝という諡号を付けていますから、劉備は立場上、献帝のことを愍帝と呼ばなければいけません。そもそも献帝は劉備より長生きなので、劉備が献帝の諡号を呼ぶことはありえません。
内容的にも、まるで小学校低学年の作文のようです。最後の一句なんかどうです?「袁譚が不仁だから溜息が止まらない!」あまりにも直截すぎる表現で、詩心のかけらもありません。しかし、詠んでいる時の情景が美しいですね。夜、ほろ酔いの劉備が、しんみりと口ずさむ。
臥龍先生の庵の塀に書きまくった詩
情景を想像してみて笑っちゃうのが、三顧の礼の時に詠んだ詩です。参謀に恵まれないためになかなかうだつの上がらないことを悩んだ劉備が、臥龍と称される隠者・諸葛亮の庵を三度も訪ねて、庵を出て自分に力を貸してくれるように頼んだという三顧の礼。三国志平話では、一度目と二度目は臥龍先生は居留守を使って劉備を帰らせています。最初の訪問の時、劉備は諸葛亮の庵の塀にこんな落書きをして帰りました。
【原文】
独跨青鸞何処游 多応仙子会瀛洲
尋君不見空帰去 野草閑花满地愁
【書き下し文】
独り青鸞に跨り何処にか游ぶ 多く仙子に応じて瀛洲に会す
君を尋ねて見えず空しく帰去す 野草閑花 满地の愁
体裁が全く三国時代っぽくなく、なんだか唐詩っぽいうさんくさい七言絶句です。どうということない詩ですが、常識的な出来ですね。諸葛亮のことを仙人扱いしております。人のお家に勝手に落書きしちゃだめでしょ、って思いますが、思いのたけを述べた七言絶句を一首書いたくらいならさほど目くじら立てることでもないかもしれません。
おかしいのは二度目の訪問の時です。このときは、詩の長さが尋常ではありませんでした。五文字の句が二十個、ぜんぶで百文字も書いてしまっています。この落書き誰が消すんじゃ! 迷惑だよ!臥龍先生が三度目の訪問で劉備に面会したのは、また居留守を使って落書きを増やされたらたまらんと思ったからかもしれません。
周瑜へのおべっかで窮地を免れた一首
三国志平話の中で劉備の詩が最も効果的に使われているのは、呉の周瑜と一緒に黄鶴楼で酒を飲んでいた時の一首です。(黄鶴楼は周瑜が亡くなった十三年後の西暦223年に物見櫓として建てられたそうですが気にしない)劉備の存在がいずれ呉にとって脅威となるに違いないと確信していた周瑜、宴会の場で劉備を殺してしまおうと企んでいます。
本心を隠しながら酒を酌み交わす劉備と周瑜。周瑜が「曹操が権力を弄んでいるいま、諸侯もそれぞれ覇を唱えるべきだ!」と息巻けば、劉備は「公瑾どのが軍をおこされる際にはこの劉備が先鋒をつかまつりましょう」とおべっかを使います。そしてこんな詩を詠みました。
【原文】
天下大乱兮劉氏将亡
英雄出世兮掃滅四方
烏林一兮銼滅摧剛
漢室興兮与賢為良
賢哉仁徳兮美哉周郎
賛曰
美哉公瑾間世而生
興呉吞霸与魏争鋒
烏林破敵赤壁鏖兵
似比雄勇更有誰同
【書き下し文】
天下大いに乱れ 劉氏まさに亡ばんとす
英雄世に出で 四方を掃滅す
烏林に一たび 銼滅して剛を摧く
漢室興りて 賢と良たり
賢なるかな仁徳 美なるかな周郎
賛に曰く
美なるかな公瑾 世の間に生る
呉を興し霸を呑み 魏と鋒を争う
烏林に敵を破り 赤壁に兵を鏖す
雄勇似て比するに 更に誰か同じこと有らん
周瑜のことを「美なるかな」と言いながら、烏林や赤壁の戦いぶりを褒め称える、おべっか全開の詩です。劉備のおべっかに周瑜は気をよくしてつい酔っ払ってしまい、油断している隙に劉備に逃げられてしまいました。詩で「喜車の術」(相手をおだてて隙を作る忍術)をかまして窮地を脱出。劉備め、なかなかやるやつです。
三国志ライター よかミカンの独り言
引用した詩はいずれもさほど素晴らしいものには見えませんが、乱世を渡る劉備親分の生き様があらわれていて面白いですよね。三国志演義で親分の詩がカットされてしまったのは少し残念な気がします。
物語の主人公として、詩作がヘタだというのはまずいという配慮からでしょうか。ちまちまと詩を詠んだりしない三国志演義の大人物の劉備と、ヘタでもストレートな詩を量産してそれをストレスマネジメントや対人交渉に活用する三国志平話のやり手の劉備。皆様はどちらがお好きですか。
【参考文献】
翻訳本:『三国志平話』二階堂善弘/中川諭 訳注 株式会社光栄 1999年3月5日
原文:维基文库 自由读书馆 全相平话/14 三国志评话巻上(インターネット)
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