曹操(そうそう)は戦を勝ち続けて、何とか魏の領土を作り上げる事に成功します。そして彼は魏の領土を作り上げると共に、様々な法律を作り上げて魏の基礎を作り上げた後に亡くなります。
そして曹操の跡は曹植や弟達と熾烈な後継者争いを勝ち抜いた曹丕(そうひ)が継ぎます。曹丕は父の跡を継ぐとすぐに漢王朝の皇帝劉協から皇帝の位を譲ってもらい、魏王朝を成立させます。魏王朝成立をさせた彼は、魏の国を安定にするために様々な政策を実施して、国を安定させますが、40歳の若さで亡くなってしまいます。
こうして魏王朝初代皇帝の跡を継いだのは曹丕の息子である曹叡(そうえい)ですが、彼の代で魏王朝に影が見え始める事になります。
この記事の目次
- 若くして曹丕の跡を継ぐ
- 父に殺された母を祀る
- 呉軍が攻め込んでくるも的確に状況を判断して対応
- 蜀の丞相・諸葛孔明との戦いその1:魏の孟達に調略を仕掛けてくる
- 蜀の丞相・諸葛孔明との戦いその2:自ら長安に赴く
- 蜀の丞相・諸葛孔明との戦いその3:曹真・張郃のコンビが蜀軍を打ち払う
- 曹真の進言を取り上げる
- 蜀へ攻撃をかけるが…
- 司馬懿に軍権を与えて、蜀軍迎撃に当たらせる
- 呉・蜀同時進行戦その1:蜀の攻撃を司馬懿に防がせる
- 呉・蜀同時進行戦その2:呉軍への対応は皇帝自ら行う
- 呉・蜀同時進行戦その3:孔明が亡くなった事で、蜀軍も撤退を開始
- 北伐が行われなくなると…
- 遼東討伐を命じる
- 皇帝曹叡も若くして亡くなる
- 曹魏滅亡へ傾いた原因その1:曹叡の寿命が短かった
- 曹魏滅亡へ傾いた原因その2:土木事業が短期間で終わってしまった
- 三国志ライター黒田廉の独り言
若くして曹丕の跡を継ぐ
曹丕は若くして亡くなる事になり、彼の後継者となる人物は若干22歳の青年である曹叡(そうえい)です。彼はどのような人物であるか群臣達は全く分からなくて不安に陥りますが、この時漢王朝の劉氏の末裔である、劉曄(りゅうよう)が曹叡と語り合います。
二人の語り合いは曹叡の私室で何回も行われ、数日後に出てきた劉曄はげっそりしておりました。劉曄が出てきたことを知った群臣達はすぐに駆け寄り、次の皇帝がどのような人物であるかを聞きに来ます。劉曄は曹叡の性格などを語った後群臣達に「陛下は秦の始皇帝(しこうてい)や漢の光武帝に近い存在になるであろう。」と語ります。群臣達は劉曄の言葉を聞いて安心して、彼に仕える事ができるようになります。
父に殺された母を祀る
曹叡は皇帝となって最初に行った事は、父に殺害された母・甄氏(しんし)を祀る事です。甄氏は曹叡が16歳の時に曹丕に殺され大いに悲しみます。この悲しみを持ったまま曹叡は皇帝となるとすぐに彼女の名誉を回復するため、甄氏に皇后の位を贈ります。その後彼は父曹丕には文帝。祖父・曹操へは武帝の位を追贈します。
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呉軍が攻め込んでくるも的確に状況を判断して対応
曹叡は母・甄氏、父・曹丕、祖父・曹操へ追贈を行った後、呉軍が攻め込んできます。呉軍が攻撃してきたところは江夏(こうか)と言われる都市が攻撃を受けます。この時群臣達は曹叡に「陛下。呉が江夏へ攻め込んできました。すぐに江夏へ大軍で援軍を派遣しましょう。」と進言します。
しかし曹叡は「いや。孫権は本腰で攻めてきているわけではなく、奇襲目的で攻撃を仕掛けてきているに過ぎない。また江夏には防御の達人と言われている文聘(ぶんぺい)が居るから、大軍で援軍を送る必要は無く、少しの援軍を出せばすぐに退却するに違いない」と状況を見切って、少しの兵を援軍として江夏へ送ります。すると曹叡の状況判断が正しかった事がすぐに現れます。孫権は魏軍が援軍に来たと知るとあわてて、退却していきます。こうして曹叡の軍事における状況判断の正しさが示される事になります。
蜀の丞相・諸葛孔明との戦いその1:魏の孟達に調略を仕掛けてくる
蜀の丞相・諸葛孔明(しょかつこうめい)は魏の曹丕が亡くなると、荊州の要衝である新城(しんじょう)にいた孟達(もうたつ)へ調略を仕掛けてきます。孟達は関羽が亡くなった後に、魏へ降伏してきた元・蜀の武将ですが、彼は曹丕に非常に可愛がられておりました。
しかし曹丕が亡くなると孟達は、このまま魏へ属している事に不安を感じている所へ、蜀の丞相である孔明から蜀へ帰ってこないかと誘われます。孟達は孔明の誘いに乗って蜀へ寝返る準備を始めます。孟達が蜀に寝返るのではないかとの情報が曹叡に届くと、司馬懿(しばい)も曹叡と同じ情報を手に入れており、すぐに孟達攻撃に出陣します。
曹叡は司馬懿が孟達討伐の出陣を事後報告で知った事を責めずに、大いに彼を誉めて彼の功績を称えます。この司馬懿の即応によって孔明の計略は潰える事になります。
蜀の丞相・諸葛孔明との戦いその2:自ら長安に赴く
蜀の諸葛孔明は孟達(もうたつ)の寝返りに失敗すると大軍を率いて、魏の領土に侵攻してきました。曹叡は魏の領土を守るため、曹真(そうしん)に魏の勇将・張郃(ちょうこう)をつけて蜀軍迎撃に向かわせ、自らは長安に赴き、この地方の動揺を鎮める事に腐心します。
蜀の丞相・諸葛孔明との戦いその3:曹真・張郃のコンビが蜀軍を打ち払う
曹真は曹叡から軍権を預けられ蜀軍迎撃に出陣すると、張郃に先鋒を任せ、自らは後方に駐屯して蜀軍に対応できるように指揮。張郃(ちょうこう)は蜀軍が街亭近辺の小高い山に陣取っていると知ると全軍で包囲し、蜀軍が陣取っている山の水を補給できないようにします。
蜀軍は水が補給できなくなると、全軍で山を下ってきますが、張郃は見事に蜀軍を撃破し、孔明の第一次北伐に勝利を収めます。曹叡はこの報告を聞くと大喜びし、曹真に大司馬の位を授けて大いに褒め称えます。
曹真の進言を取り上げる
曹叡は蜀軍北伐の功績者である曹真から「蜀軍は連続で攻撃を仕掛けており、蜀の国は疲れているはずです。今こそ大軍を率いて蜀へ侵攻するべきです。」と進言。曹叡は彼の進言を聞くと少し考えた後、「分かった。蜀を見事に討伐して来い!!」と彼に大軍を与えて出兵を許可します。
蜀へ攻撃をかけるが…
曹真は曹叡から出陣の許可を貰うと、司馬懿(しばい)・張郃ら歴戦の諸将を従えて、3つの道から蜀へ攻撃を仕掛けます。こうして魏の国始まって以来の大規模作戦を発動させましたが、漢中を中心とした大雨が降った事によって、魏軍は蜀の国土を進んでいく事が困難になっていきます。曹真はこの大雨によって当初の進軍予定より大幅に遅れて、半分未満しか進めませんでした。
魏の行軍速度が遅々として進まない事に危険を感じた魏軍の幕僚達は、総大将である曹真へ「総大将。このままでは蜀と戦う前にこちらが疲弊してしまい、蜀軍に勝利する所か敗北する可能性もあるでしょう。わが軍に損害が出ていない今、速やかに撤退なさるべきです。」と提案します。曹真はこれらの意見に反対をしておりましたが、漢中を中心として降った雨は、全く止むこと気配を見せず、ついに曹真は撤退を決意。
こうして一切戦果を挙げずに撤退することになった曹真は、撤退途中で病にかかってしまいます。曹真は長安に病にかかりながらもなんとか撤退してきますが、その後病が回復する事無く、亡くなってしまいます。
司馬懿に軍権を与えて、蜀軍迎撃に当たらせる
曹叡は曹真が亡くなると、司馬懿に蜀軍迎撃の総司令官として任命し、孔明が魏の領土に侵入してくると、彼に出陣させます。司馬懿は孔明に挑発され蜀軍に決戦を挑みますが、大敗北をしてしまいます。しかしその後は守りを固くして蜀軍を見事に迎撃していきます。
呉・蜀同時進行戦その1:蜀の攻撃を司馬懿に防がせる
蜀の丞相・諸葛孔明は幾度も魏へ侵攻を行いますが、なかなか上手く行く事ができませんでした。そのため彼は、呉に要請して一緒に魏の領土へ攻め込もうと誘います。呉は孔明の要請に応え、魏の領土で長年欲していた合肥(がっぴ)の地へ攻撃を仕掛けます。
蜀も呉が合肥へ攻撃を行った事を確認すると漢中から北上し、長安近辺の五丈原に駐屯し、積極的に魏の領土へ攻撃を仕掛ける事をせずに、魏の出方をうかがう姿勢を示します。曹叡は蜀軍の迎撃を行うため、司馬懿に大軍を預けて迎撃するように命令をします。司馬懿は曹叡の命令を受けて蜀軍迎撃に出陣し、孔明の挑発を幾度も受けますが、彼は一切孔明の挑発を受けることなく、しっかりと防御の砦の中に引きこもり、蜀軍が撤退するまで待ち続けます。
呉・蜀同時進行戦その2:呉軍への対応は皇帝自ら行う
曹叡(そうえい)は蜀の迎撃態勢を司馬懿に任せ、自らは呉軍を退かせるために出陣します。合肥(がっぴ)には「孫権キラー」として知られる満寵(まんちょう)が呉軍迎撃の為に、準備を行っておりました。そのため呉軍が合肥へ攻撃を仕掛けてくると、満寵は奇襲攻撃を行い呉軍の攻撃を鈍らせる事に成功します。
呉軍は満寵の奇襲攻撃後激しく合肥へ攻撃を仕掛けますが、合肥城は満寵の鉄壁の防備にビクともしない事を知ると、軍を撤退させていきます。曹叡は呉軍が撤退した事を知ると大いに残念がりますが、合肥一帯を巡察した後首都へ帰還します。
呉・蜀同時進行戦その3:孔明が亡くなった事で、蜀軍も撤退を開始
呉軍は合肥を攻撃するも満寵の鉄壁の守りに遮られて、撤退していきます。呉軍が撤退した後も蜀軍は五丈原に陣取って、魏軍の出方を伺っておりましたが、突如撤退を開始します。曹叡は蜀軍が撤退した時には、追撃を行い蜀軍に損害を与えよと指示していたため、司馬懿は蜀軍に攻撃を行います。
しかし司馬懿は蜀軍の伏兵を恐れて、猛攻をかける事をしませんでした。そのため、蜀軍は無事に国に帰る事に成功します。こうして蜀・呉同時侵攻作戦は曹叡・司馬懿の活躍によって、両軍を打ち払う事に成功します。
北伐が行われなくなると…
曹叡・司馬懿の二人の司令官の活躍によって蜀・呉同時侵攻を打ち払うと曹叡は土木工事を開始します。この土木工事は宮殿の補修や新たにものすごく大きい宮殿を増設したりした事で、魏の財政は大きく傾いていく可能性があるとして魏の重臣達のほとんどが、曹叡が行った土木事業の中止を訴えますが、曹叡は「この土木事業は民衆の生活を富ませる為にやっているのだ。
国家にとって非常に大切な事業だから止めるわけにはいかない。」と重臣達の反対を押し切って土木事業に専念していきます。魏の重臣達が危惧した通り、曹叡が強硬的に行った土木工事は魏の財政を圧迫。また農業の収穫期に民衆を動員した事が原因で、生産力が低下していく事になります。そのため民衆からは徐々に不満が溜まっていく事になります。しかし曹叡の耳に達する事は無く、自らの信念に則って土木事業を推進していきます。
遼東討伐を命じる
曹叡は土木事業を推進していく中、魏の国に従属していた遼東の公孫淵(こうそんえん)が不穏な動きを見せます。彼は公孫淵が魏に臣従してくつもりがあるのか確かめる為、色々な事を命令。しかし公孫淵は魏の命令を聞く事はありませんでした。そのため曹叡は公孫淵討伐を司馬懿に任せる事にします。司馬懿は曹叡の命令を受けて、公孫淵討伐に出陣。
皇帝曹叡も若くして亡くなる
曹叡は司馬懿の出陣を見届けた数か月後に突如病にかかって亡くなってしまいます。彼は自らの命が尽きる事を悟ると後継者選びに苦労しますが、自らの寿命が尽きようとしている今迷っている暇はなく、斉王で幼い曹芳(そうほう)を皇帝に就かせるようにと遺言を残します。その後遼東討伐から帰還してきた司馬懿と曹爽(そうそう)を呼び「私が亡くなった後、幼い皇帝である曹芳を二人で協力して支えてくれ。」と懇願。二人は曹叡の前で力強く頷くのを確認した曹叡は、そのまま息を引き取って行きます。
曹魏滅亡へ傾いた原因その1:曹叡の寿命が短かった
曹魏の滅亡へ傾いた原因は曹叡の寿命が短かった事にあると思います。その理由は彼がもう少し長生きして、後継者をしっかりと見定める事が出来れば、幼い皇帝を立てる事も無かったと思います。また幼い皇帝が帝位に就く事が無ければ、司馬懿と曹爽の権力争いももしかしたら行われず、曹魏を乗っ取ろうと思わなかったのではないかと思います。
曹魏滅亡へ傾いた原因その2:土木事業が短期間で終わってしまった
曹叡が自らの信念に基づいて行った土木事業。この土木事業は土木工事に参加した農民に給料を払い民衆の生活が向上する事により、給料を生活品や贅沢品に使う事によって、経済・流通が円滑に回り始めれば国家が潤っていくはずでした。その為曹叡はこの土木事業を配下の反対を押し切って行っていく事になりますが、曹魏の財政を圧迫することに。
しかし長期的な目で見た場合、民衆を富ませる事が可能であったのではないかと思いますが、この土木事業も曹叡が若くして亡くなった事で、魏の財政の圧迫した事実のみが残ってしまいます。この土木事業が10年程度続いていれば、魏の財政の圧迫は立て直され潤っていたのではないかと考えられると思います。これらの原因が曹魏の滅亡へと向かっていく原因になったのではないかと、考えられるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田廉の独り言
今回は魏の2代目皇帝曹叡について紹介させていただきました。彼は名君として非常に期待されていた人物であっただけに、短い期間でなく亡くなってしまった事が非常に魏にとって痛手となってしまいます。そして魏の3代目皇帝・曹芳へと続く事になるのですが、曹芳の時代から一気に曹魏滅亡へと進んでいく事になります。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。それじゃまたにゃ~」
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