蜀の丞相・諸葛亮は西暦234年8月に北伐の前線・五丈原で病を発し亡くなりました。享年54。正史三国志の注釈に引用されている『魏書』によれば、諸葛亮は兵糧が尽き戦況も行き詰まって憂いと怒りのために血を吐いたとありますが、正史三国志の注釈者・裴松之は『魏書』が魏を誇大に書くための妄言であるとしてこれをしりぞけています。
「血を吐く」とは、事態が思うようにいかずに気持がくじけたことを示すテンプレ描写に過ぎません。つまり、史書には諸葛亮の病状について信憑性のある記述はありません。本稿では、フィクションの中の登場人物の話として、三国志演義李卓吾本に記されている諸葛亮の病状を読み解いてみます。
※以下、本稿の記述は全て三国志演義李卓吾本に沿ったものです。
この記事の目次
諸葛亮発病の経緯
西暦229年、蜀の第三次北伐が蜀軍の有利な情勢となっていた際、諸葛亮に一つの訃報が届きます。それは将来に期待をかけていた若手武将・張苞の死去の知らせでした。諸葛亮は声をあげて泣くうちに吐血し、昏倒しました。そのまま病気となり起き上がることもできなくなったため、遠征を中止し都へ帰って療養することとなりました。やがて病も癒え、翌年には第四次北伐に臨み、5年後には第五次北伐に乗り出しています。西暦229年にいったん病気になりましたが、治ってからの5年間は何事もなかったのです。
旧病の再発
西暦234年の第五次北伐の際、諸葛亮は過労のため食が細くなってはいましたが、とりたてて病気ということもなく指揮をとっていました。ところが、一つの消息を聞いて旧病が再発します。それは、蜀の北伐と同じタイミングで魏への遠征を行うことを約束していた呉が、魏に敗れて撤兵してしまったという知らせです。これを聞くと諸葛亮は一声長嘆し、昏倒しました。
半日ほど経って目を覚まし、「心が乱れて旧病が再発した。遠からず寿命が尽きるであろう」と言いました。姜維が延命祈祷を行うようすすめ、諸葛亮は灯明が7日間消えなければ寿命が12年延びるという祈祷を開始しました。夜は祈祷、昼は軍務を執り、吐血がやまず、しばしば昏倒しては起きてまた続きをやるという状態でした。
どういう病気なのか?
口から血を吐くということは肺か胃が悪いのだろうと思いますが、咳をしている描写がないので、悪いのは胃だったのでしょう。初めて吐血してから5年間は息災だったことから、がんではなさそうです。心因によって吐血していますので、胃潰瘍を想定しての描写ではないでしょうか。
祈祷失敗後の大量出血
祈祷6日目の夜、敵襲を知らせに来た魏延の歩く勢いで祈祷の灯明が消えてしまいました。諸葛亮は嘆息して祈祷を中止し、幾口も吐血して、身体を横たえながら魏延に敵兵撃退を命じました。
そしてその場にいた姜維に自らの著書二十四編、連弩の法、蜀の防衛の注意点を伝え、楊儀を呼びよせ、いずれ謀叛をするであろうと諸葛亮がかねがね疑っている魏延の粛清の手順書を楊儀に手渡し、魏延が謀叛した時にそれを読むよう指示したあと人事不省に陥ります。祈祷が失敗した夜が明け、その日も暮れてから、諸葛亮は目を覚ましました。そこで首都・成都にいる皇帝・劉禅に向けて大至急で表文(主君宛の文書)を発送しました。その夜にも諸葛亮は何度か意識不明になりました。
祈祷失敗後の病状
大量に吐血してから人事不省になっていますので、出血性ショックをおこしたものと思われます。血圧低下、頻脈、発汗、冷え、皮膚蒼白、意識障害。ぐったりとし、呼吸が浅く速くなります。めまい、頭痛、耳鳴り、息切れ、手足のしびれや冷えなどに見舞われていたことでしょう。諸葛亮は5年前にも寝込んでいますが、その時の感覚と比べてみて、あの時はずいぶん大変だったが今回はもっとひどいかもしれない、ここで気を失ったら二度と目覚めないおそれもある、と考えたのではないでしょうか。
このため、今にも気が遠くなりそうなのをがまんしながら、どうしてもこれだけは言っておかなければ、と思うことを楊儀に伝え、それが済んで気がゆるんだところで意識を失ったのでしょう。
魏延粛清の手順書は、「旧病が再発した」と言い始めた頃から書いて肌身離さず持っていたのではないでしょうか。姜維への秘伝伝授は楊儀への指示より優先順位が低そうですが、諸葛亮が倒れたとき姜維はそばにいたので、楊儀が来るのを待つ間を利用して姜維に言っておきたいことを言っただけでしょう。
この日から臨終の時まで何人かにいくつか指示を出す場面がありますが、どうしてもこれだけは伝えなければという内容は魏延粛清計画だけです。他のことは残った人が自分たちで考えてなんとかできそうな内容です。目を覚ましてからも何度か意識を失っていることから、予断を許さない状態であったことと思います。自分でもただごとではないと感じて大急ぎで成都に表文を送ったのでしょう。きっと口述筆記で、文面も簡潔なものであったことでしょう。
成都からの勅使到着、最期の閲兵
表文を受け取った皇帝・劉禅は、李福を勅使として五丈原に急行させました。李福が到着すると、諸葛亮は自分の死後も現在の制度や人員配置を換えないで欲しいということ、馬岱を重用してほしいこと、自分の兵法は姜維に託したことを李福に伝え、李福はそれを皇帝・劉禅に伝えるために成都に向けて帰っていきました。
このあと諸葛亮は左右の者の手を借りながら小車に乗り、陣営を見てまわりました。秋風が顔に吹き付けると骨身にしみるような寒さを感じ、「もう戦いの指揮をとり賊を討伐することはできなくなった」と嘆きます。
閲兵の時の体調
五丈原からの表文が成都に届き、成都から勅使が五丈原に到着するまで、めいっぱい急いでも10日以上はかかりそうな道のりです。表文を発送した時の様子からすると、再度吐血があれば勅使を迎えることはできなかったことと思いますので、この10日ほどの間は吐血がなく状態が落ち着いていたはずです。飲まず食わずでは10日はもちませんから、水分補給もできていたのでしょう。蜂蜜や塩をとかしたようなお湯などを飲みながら少し元気を回復していたことと思います。
勅使と対面しないうちに万が一のことになると頓死のような形になってしまうため、勅使に会うまではめいっぱい大事にして過ごしていたのでしょう。少し元気の戻っていた諸葛亮は、勅使の応対を無事に終え肩の荷が下り、ちょっと自由に動いてみようかなと思って閲兵を始めたのでしょう。
これが最期の閲兵になるとは思っておらず、何か気付くことがあれば指摘して修正しておこうという程度の考えであったと思います。食事が満足にとれないのでもりもり体力を取り戻すということはないにしても、吐血が止まっている以上、急にどうこうなることもないだろうと思っていたのではないでしょうか。ところが、外へ出てみるとなんでもないはずの秋風がひどく寒く感じられ、自分はこんなに弱っていたのかと愕然として嘆いたのではないでしょうか。
遺表をしたため将星を落とさないよう手配、そして死
閲兵を終えた諸葛亮は自室に引き返すと容態が急変し、楊儀を呼んで自分の死後の撤兵のしかたについて指示を出しました。そして寝台の上に横になりながら皇帝宛ての遺書をしたためます。
それが終わると、自分の死後に自分の将星が落ちないようにするための方法を楊儀に指示します(敵が天文を読んで自分の死を察知することがないようにするため)。夜になると、人に支えられながら外に出て、自分の将星に向かって呪文をとなえ、それが終わると急いで自室に引き返そうとしましたが、戻る途中で意識を失いました。
諸葛亮が昏睡に陥っているさなか、勅使・李福が引き返してきて、諸葛亮がものも言えなくなっているのを見て「国家の大事を誤った」と嘆きます。李福は諸葛亮の後継者候補を聞き忘れたと思って引き返してきたのですが、それを聞きそびれたと嘆いたのです。しばらくすると諸葛亮は目を覚まし、李福の質問に答えました。後継者候補は蒋琬、蒋琬の後は費禕。費禕の後は、と李福が聞くと返事がなく、のぞき込んでみると諸葛亮はすでに亡くなっていました。
気力で支えた将星
自室に戻ると容態が急変したというのは、寒い中を出歩いたのが体に触ったせいかもしれませんね。そうなってから遺書をしたためたということは、それまでは遺書なんて後で書けばいいやと思うほど元気だったということでしょう。
またしても、いまにも気が遠くなりそうなのをがまんしながら楊儀に指示を出し、将星が落ちないように(※)まじないをかけておかなければならんと考え、星が出る時刻までなんとか持ちこたえたのでしょう。夜になり、外へ出て星に呪文をかけると、そこで気がゆるんだのか部屋まで戻らないうちに気を失っています。
李福の質問は、聞かれなければ答えたくない内容であったことでしょう。ぜひ言っておきたいことなら最初に会った時に自分からとっくに言っていたはずです。費禕の後の候補なんてまだまだ先のことで、諸葛亮が思い描いている人物はまだ年も若く地位も確立していないはずです。ここで名前を出したらその地位に昇る前に先輩たちに潰されることが目に見えています。そんなもの答えられないよ、と思いながら亡くなったのではないでしょうか。李福もおかしな質問をしたものです。
※三国志演義には星に呪文をかける目的について明記されていません。また、司馬懿は天文から諸葛亮の死を察してしまっています。
三国志ライター よかミカンの独り言
諸葛亮はおそらく何年も前から、イライラッとするとすぐにお腹がチクチク痛くなる、というような自覚症状があったことと思います。現代人だったら、その段階で病院に行ってお薬をもらったりピロリ菌の除菌をしたりして、何事もなく元気に過ごしていられるものではないでしょうか。また、祈祷に失敗して大量出血した段階でも、輸血と点滴でしのぎながら手術をして患部を上手にふさいでしまえば何事もなかったように元気を取り戻せるのではないかと思います。
こんな話題は、フィクションの登場人物であると思うからできることですね。冒頭でも書きましたが、諸葛亮の病気がどのようなものであったか、歴史書には信憑性のある記述はありません。それが普通のありかたであろうと思います。
※三国志演義李卓吾本のテキストは下記を参照しました。
『三国演義(新校新注本)』羅貫中 著 瀋伯俊 李燁 校注 巴蜀書社出版 1993年11月
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