三国志に登場する数々の英雄たちの中で、なぜか亡くなるシーンが不鮮明な人物がいます。人気武将でいうと趙雲がその筆頭でしょう。他にも魏の将軍としては曹仁や曹洪もフェードアウトしていった感じがあります。
そして趙雲と並ぶ人気武将の「馬超」もまたその死因は謎です。馬超の死因が知りたい三国志ファンも多いのではないでしょうか。
馬超活躍のピーク
馬超の活躍といえば曹操との間で繰り広げられた211年の「潼関の戦い」でしょう。最終的には大敗するものの、曹操をあと一歩のところまで追い詰めました。
その後は漢中の張魯のもとや異民族に身を寄せて曹操打倒を継続しましたが、最終的には214年、益州を平定する寸前だった劉備に帰順します。馬超活躍のピークは211年であり、後は急速に下降していくことになるのです。
蜀の五虎大将のひとり
馬超の帰順を劉備は喜びました。平北将軍・都亭侯として迎えています。
219年に劉備が漢中王を自称すると、三国志演義では関羽や張飛に並ぶ「五虎大将」として馬超を扱っています。
蜀ファンとしては最もテンションの上がる時期ですね。劉備の陣営には諸葛孔明という名軍師の他、一騎当千の武勇を誇る関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲らが健在でした。
しかしこの年に関羽が荊州の地で敗れ、処刑されてしまいます。五虎大将が揃って戦うことは幻で終わってしまうのです。
馬超が亡くなったのは222年以降
張飛は部下に暗殺され、黄忠も220年に病没(三国志演義では夷陵の戦いまで生きて戦死)と勇将が次々とこの世を去っていきます。蜀ファンにとってはまさに暗黒の時代へ突入していくことになります。
期待は諸葛孔明、馬超と趙雲に託されるわけですが、そんな中で劉備が主力を率いて孫権を攻めて夷陵の戦いで大敗してしまいます。諸葛孔明も馬超も趙雲すらこの戦いには参加していません。
馬超は驃騎将軍に昇進しており、涼州牧の肩書も持っていましたから、漢中より北の魏に対しての守りを固めていたと思われます。三国志正史では222年に47歳の若さで突如亡くなります。三国志演義では227年まで生存が確認できますが、特に活躍することもなく病没のみが語られています。
馬超隠居説
馬超は曹操との熾烈な戦いで燃え尽きたのではないかという見方があります。父も弟も処刑され、妻も子も失いました。劉備に帰順したときには馬超にはもはや何も残っていなかったのです。
生きることに疲れた馬超は一族を馬岱に預け、山奥の異民族の集落へ隠れ住むようになります。そこで袁術の娘とひっそり暮らしたのです。というのが私の愛読書の北方謙三先生の三国志の内容ですね。これまで読んできた三国志の中で最も説得力のある展開でした。
馬超が隠居したというのでは格好がつかないので、病死という扱いを諸葛孔明はしたのかもしれません。こうなると馬超がいつまで生きて、どう死んだのかわかりませんね。
三国志ライターろひもと理穂の独り言
戦闘能力の高い異民族である羌とのつながりが深い馬超の存在は、魏にとっては脅威だったことでしょう。もしかしたら暗殺の魔の手が迫っていたかもしれません。
孫策や張飛はそうして命を落としています。三国志正史を読む限りでは、私としては家族を死に追いやってしまったという罪の意識に馬超は苛まれていたのではないかと思います。
馬超からはとても深い闇を感じてしまうのです。ひょっとしたら馬超は自害したのかもしれませんね。だとしたらその死の真相は、国によって覆い隠されたことでしょう。
その死因が謎に包まれている馬超ですが、北伐に参加して大活躍する姿がぜひ見たかったですね。ちなみに生き残った娘のひとりは劉備の子と結ばれたそうです。馬超の血が絶えることはなかったのではないでしょうか。
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