三国志演義では著名な呂布(りょふ)には、八健将という配下の諸将を抱えていました。八健将は八人の武将からなり、それぞれに序列が決められています。
上の序列から、張遼(ちょうりょう)、臧覇(ぞうは)、郝萌(かくぼう)、曹性(そうせい)、成廉(せいれん)、魏続(ぎぞく)>宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)となります。序列1位の張遼(ちょうりょう)は魏の将として著名ですし、2位の臧覇(ぞうは)は正史では呂布(りょふ)の盟友として知られています。
では、逆に下の序列の将はどのような将だったのでしょうか。今回は八健将の序列でも下位に位置する六位の魏続(ぎぞく)と七位の宋憲(そうけん)について正史と演義の両方から紹介します。
この記事の目次
正史での魏続と宋憲
魏続(ぎぞく)は呂布(りょふ)の配下ですが、呂布(りょふ)の縁戚関係にあったことが知られています。そのため、呂布(りょふ)もいつも気にかけていたようです。呂布(りょふ)は配下に、高順(こうじゅん)というかなりの名将を持っていましたが、彼とは何故か折り合いが合いませんでした。
呂布(りょふ)はやがて高順(こうじゅん)を疎んじるようになり、高順(こうじゅん)の率いていた勇猛な兵を魏続(ぎぞく)の兵と交換してしまいました。高順(こうじゅん)の兵は恐らく呂布(りょふ)軍の中でも精鋭でしたので、すごい身内贔屓です。宋憲(そうけん)は、呂布(りょふ)の配下として彼につき従い、久しく戦い続けていました。彼の経歴は正史では、あまり残されていません。
正史の魏続と宋憲の活躍
魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)の正史での唯一の活躍は、呂布(りょふ)を裏切り滅亡に招いたことです。呂布(りょふ)はその生涯最後の戦いで、曹操(そうそう)と下邳城で戦っていました。この時、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)共謀して呂布(りょふ)を裏切り、呂布(りょふ)を始めその部下の陳宮(ちんきゅう)と高順(こうじゅん)を捕縛し、曹操軍を城内に招き入れました。
そのため、呂布(りょふ)軍は敗北しました。最後に呂布(りょふ)は斬首となります。しかし、その時曹操(そうそう)との以下のような会話が記録されています。呂布(りょふ)は敗北したことについて、呂布(りょふ)「諸将が我が恩義を忘れて寝返ったせいで、こうなっただけで俺はまだ負けていない。」
曹操は「お前は妻を裏切り、諸将の妻を愛した。どこに恩義があるというのか?」ここで言う諸将には魏続(ぎぞく)が含まれています。呂布(りょふ)もこの切り替えしには、赤面しかありません。これ以降、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)は正史に記述がありません。
演義での活躍
三国志演義では、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)を含めた八健将は呂布(りょふ)とともに「濮陽の戦い」で曹操(そうそう)軍と戦います。その戦いで、参謀の陳宮(ちんきゅう)の計で魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)らは、一時は曹操(そうそう)を追い詰めることができました。その後、曹操(そうそう)軍と呂布(りょふ)軍の戦いは中断した後に再開し、ある時濮陽の豪族、田氏(でんし)の裏切りにより呂布(りょふ)は城を追われました。敗北した呂布(りょふ)は当時目立った接点もない小沛城の劉備(りゅうび)の元に落ち延びます。
娘の護衛を任される宋憲と魏続
この頃、袁術(えんじゅつ)の使者として韓胤(かんいん)が呂布(りょふ)の元を訪ねます。韓胤(かんいん)は呂布(りょふ)の娘と袁術(えんじゅつ)の息子との縁談を持ちかけます。呂布(りょふ)は承知し、袁術(えんじゅつ)は報告を受けると、韓胤(かんいん)に結納の品を届けさせました。
呂布(りょふ)は娘に準備させると、宋憲(そうけん)・魏続(ぎぞく)に命じて韓胤(かんいん)とともに娘を送らせました。ところが、この縁談は曹操(そうそう)の計で破談となってしまいます。
張飛に敗北
その後、宋憲(そうけん)・魏続(ぎぞく)が呂布(りょふ)の命令により山東で良馬三百頭を買いましたが、、山賊を騙った劉備(りゅうび)の義弟、張飛(ちょうひ)に奪われてしまいます。張飛(ちょうひ)は呂布(りょふ)を良く思っていませんでした。
このことで劉備(りょうび)と呂布(りょふ)に決定的な亀裂が入ります。呂布(りょふ)軍から攻撃を受けた劉備(りゅうび)軍は城からの脱出を試みます。張飛(ちょうひ)が先陣を切って宋憲(そうけん)と魏続(ぎぞく)らの軍を突破し、逃げました。宋憲(そうけん)と魏続(ぎぞく)は二人掛かりで張飛(ちょうひ)に易々突破されてしまったようです。
袁術軍を撃退
呂布(りょふ)は徐州を手に入れましたが、今度は曹操(そうそう)の計で、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)らに頼んでいた袁術(えんじゅつ)との縁談が破談となった上に、呂布(りょふ)は袁術(えんじゅつ)と敵対関係となってしまいます。袁術(えんじゅつ)が徐州に攻め入ると、その配下、雷薄(らいはく)と陳蘭(ちんらん)に攻撃させます。魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)はこの時、陳蘭(ちんらん)を撃退しています。
袁術に助けを求めるも・・・
曹操(そうそう)、劉備(りゅうび)らは袁術(えんじゅつ)と呂布(りょふ)の中を裂いたことで、チャンスと見て呂布(りょふ)軍を討とうとします。この戦いの最中、部下の裏切りにあった呂布(りょふ)軍は、下邳の城に逃げ込みましたが、城も囲まれピンチに陥ります。呂布(りょふ)は何とか袁術(えんじゅつ)と内通しようとしますが、曹操(そうそう)に目論見が露見しており、袁術(えんじゅつ)と手を結べなくなってしまいました。
ピンチの主君を裏切る魏続と宋憲
その後、呂布(りょふ)は彼を裏切った部下によって陥れられます。裏切ったのは、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)でした。曹操(そうそう)は下邳の城に攻め込み、呂布(りょふ)はそれに応戦しました。夜明けから昼間まで戦って後、曹操(そうそう)軍が退きました。
呂布(りょふ)が疲れ果てて眠った隙に宋憲(そうけん)、魏続(ぎぞく)に縛られてしまった。捕らわれた呂布(りょふ)と部下は斬首され、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)は曹操(そうそう)の軍門に入ります。
その後の宋憲
その後時を経て、曹操(そうそう)とその長年のライバルである袁紹(えんしょう)の戦いがついに始まるという時が着ました。世に言う官渡の戦いです。袁紹(えんしょう)軍の名将、顔良(がんりょう)が十万の兵を率いて陣を張ります。
曹操(そうそう)は十五万の軍勢を三手に分け、まず五万の軍勢に先頭に陣を引かせました。曹操(そうそう)は宋憲(そうけん)に言いました。曹操(そうそう)「お前は呂布(りょふ)の配下の中でも名だたる猛将と聞いている。袁紹(えんしょう)の将、顔良(がんりょう)を討ちとってみよ。」宋憲(そうけん)は顔良(がんりょう)に立ち向かいますが、三合しないうちに薙刀で切り落とされてしまいました。これには、曹操(そうそう)も開いた口がふさがりません。
魏続の最後
唖然としている曹操(そうそう)に、魏続(ぎぞく)が言いました。「朋輩の仇、拙者に討たせてくださいませ。」曹操(そうそう)が許可すると、魏続(ぎぞく)は顔良(がんりょう)を罵倒しながら突撃します。しかし、顔良(がんりょう)は無言で切りかかり、ただ一合で真っ二つにしてしまいました。曹操(そうそう)は一撃でやられた魏続(ぎぞく)を見て、さらに驚愕します。結局、当時曹操(そうそう)に降っていた関羽(かんう)が倒すこととなりました。
三国志ライターFMの独り言
魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)は、正史では記載は非常に少ないのですが、呂布(りょふ)の滅亡に関わる等、時代の中で大きな役目を果たしています。また、魏続(ぎぞく)は高順(こうじゅん)の部下を任せられた等、こうした史実は一方では呂布(りょふ)の身内贔屓や自己中心的な面が現われているところでもあります。
そして身内贔屓の割りに、「諸将が恩義を忘れて~」の発言から分かるように結局全ては自分のために見えます。魏続(ぎぞく)は目をかけられていたようですが、この記録から考えると「本当にそう?」と思ってしまいます。演義でも、彼らは史実に忠実に描かれています。ただ、彼らは物語を盛り上げる役として張飛(ちょうひ)や顔良(がんりょう)にやられる役等が追加されており、引き立て役のようにもなっています。
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