『三国志』といえば、蜀・呉同盟VS魏という対立構造を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。『三国志』の中で最も大きな戦いであったとされる赤壁の戦いもそのような対立構造を呈していましたから、ほとんどの人がそう思っても仕方のないことです。
しかし、呉と蜀が仲良く手を組んでいたかといえば決してそうでは無く、同盟と言う笑顔の裏では常に火花をバチバチ散らせていました。そしてその歪みが表面化した結果、大変なことが起こってしまったのです。
呉と微妙な関係になってしまった蜀
赤壁の戦いの後、孫権からまんまと荊州をもらい受けた劉備一行。劉備は益州を手に入れたら荊州を返すという約束もどこ吹く風、関羽を置いて堂々と居座るという暴挙に出ます。すると荊州をめぐって両者の間で争いが勃発。
これにより呉と蜀の同盟関係は崩れてしまうかに思われましたが、曹操が漢中の張魯を攻撃し始めたとの知らせが入ります。このまま2国で争っていたら曹操が漁夫の利を得てしまうということで再び思惑が一致した両者は荊州を山分け。とりあえずは仲直りします。
しかし、やっぱり荊州を全て返してほしかった孫権。関羽が曹操と争っている間にちゃっかり曹操と密約を結び、呂蒙と陸遜を使って関羽をだまし討ちにしてしまいます。これには劉備もブチギレ。我を忘れた劉備の剣幕にビビった孫権は何度も劉備に謝ったのですが当然劉備の怒りが収まるはずもなく、両国は夷陵の戦いへと突入していったのでした。
頼りない劉禅を守るには…
しかし、最初の方こそ勢いのあった蜀軍でしたが、あっという間に形成を覆されてボロ負けしてしまいます。このことに大きなショックを受けた劉備はお腹を壊してポックリ逝ってしまいます。
このため、劉備に代わって劉禅が皇帝となったわけですが、これがまた頼りないのなんのって…。蝶よ花よと育てられたためか、妙におおらかでラブ&ピースな感じだった彼は父の漢王朝復興の願いなどどうでも良かった模様。
これには諸葛亮をはじめとして多くの臣下たちが劉禅のボンクラぶりに頭を悩まされていたわけですが、彼らが最も恐れていたのはこのアホ息子が魏の曹丕にパクッと食べられてしまうことでした。劉備が死んでからというもの、暇を持て余した曹丕から諸葛亮に対して「早く降伏しろよ(笑)」というお手紙が送られて来ていました。劉禅は完全にナメられていたわけですね。
この現状を打破するためには、冷え切ってしまっている呉との関係をもう一度復活させるしかない…!そう考えた諸葛亮は呉に使者を出すことにします。そしてその白羽の矢が立てられた人物こそが鄧芝だったというわけです。
鄧芝の弁舌に孫権も感激
劉備が益州を平定した際に配下に加わった鄧芝は、ある日劉備に弁舌の才を見出され、その後トントン拍子に出世を重ねて尚書にまで上り詰めます。そんな弁の立つ鄧芝に蜀の命運が託されたわけですが、彼は想像以上によくやってくれた様子。
「もう蜀なんて知らない!」という状態だった孫権の心を得意の弁舌によって見事溶かし、蜀と呉の同盟関係を再び締結することに成功したのです。そして、鄧芝本人も孫権から滅茶苦茶気に入られ、手紙や贈り物をやりとりする仲になったのでした。
『三国志演義』ではかなり激しいパフォーマンスを披露
(画像:魁男塾4巻)
巧みな言葉で孫権の心を動かしたとされる鄧芝ですが、『三国志演義』においては度肝を抜くようなパフォーマンスによって孫権の心を動かしたとされています。まず、完全に蜀を舐め腐っていた孫権は、使者として来た奴をビビらせてやろうと男塾名物・油風呂をご用意。ニヤニヤしながら使者を待ちます。そしてそこに鄧芝が到着したわけですが、鄧芝はビビるどころかいきなり孫権を罵倒!思いがけない鄧芝の反応に孫権も逆ギレ!
すると鄧芝は孫権に道理とは何たるかをこんこんと説き、一通り説教を終えたかと思うと「私がどのような覚悟でここに来たかをご覧に入れる!」と言って油風呂に飛び込もうとしたのでした。これには孫権もビックリ。あわてて鄧芝を引きとめて同盟を結ぶことを宣言したのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
街亭の戦いで趙雲と一緒に負けてしまったというイメージが強い鄧芝ですが、実はなかなかのやり手だったようですね。彼がいたおかげで蜀の寿命は延び、三国鼎立の時代がちょっぴり長く保たれたのかもしれません。
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