水滸伝の舞台は、北宋の末期だ。西暦でいうと1100年代の前半にあたる。ただ、小説として書かれたのはそれより350年ほどあとになる。この記事では舞台の時代と書かれた時代を分けて見ていく。んで、最後に「梁山泊の物語は、国が滅びる2年前に終わっている」という話までする。
この記事の目次
水滸伝は何時代?北宋末期・徽宗の治世
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 王朝 | 北宋(960年〜1127年)の末期 |
| 物語の期間 | 嘉祐三年(1058年)〜宣和七年(1125年) |
| 中心となる時代 | 徽宗の治世(1100年〜1125年) |
| 小説が成立した時代 | 元の末から明の初め(14世紀ごろ) |
物語は嘉祐三年、地中に封じられていた百八の魔星が解き放たれる場面から始まる。そこから宣和七年まで、およそ70年が描かれる。好漢たちが梁山泊に集まるのは、その終わりのほうだ。中心になるのは徽宗の治世、1100年代の前半になる。
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日本でいうと、いつごろか
物語が終わる1125年、日本は平安時代の末期にあたる。白河法皇が院政を敷いていた時期で、武士はまだ政権を取っていない。平清盛が生まれたのが1118年とされるので、ちょうど物語の終盤あたりに赤ん坊だった計算になる。源頼朝の誕生は1147年で、まだ生まれてもいない。
学校で習う年表に当てはめると、鎌倉幕府のずいぶん手前だ。教科書だと2ページくらい前になる。
| 年 | 中国(北宋) | 日本 |
|---|---|---|
| 1100年 | 徽宗が即位 | 白河法皇の院政期 |
| 1118年 | 物語の終盤にあたる時期 | 平清盛が生まれる |
| 1121年 | 宋江の乱(史実) | 同上 |
| 1125年 | 物語が終わる | 院政期のなかば |
| 1127年 | 北宋が滅ぶ | 同上 |
三国志が2世紀から3世紀の話なので、水滸伝はそれより900年ほどあとになる。同じ中国史でも、間に唐がまるごと入る距離だ。
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舞台の時代と、書かれた時代は350年ちがう
水滸伝が小説としてまとまったのは、元の末から明の初めごろだ。物語の舞台である北宋末期からは、350年ほど離れている。北宋の人が書いた話ではない。宋江の乱から数百年かけて、講釈や芝居で語り継がれるうちに人数が増え、話が膨らみ、最後に一冊の本になった。長いあいだ、僕はこれを北宋の同時代人が書いたものだと思い込んでいた。梁山泊の描写がやけに生々しいので、見てきた人が書いたのだろう、と。調べてみると違った。この作られ方、どこかで見たことがある。
三国志演義とまったく同じ作られ方
三国志演義も、三国時代の出来事を明の時代に書いたものだ。舞台は2世紀から3世紀、成立は14世紀。あいだに1100年以上ある。水滸伝も同じで、北宋末期の話を明の初めに書いている。どちらも出来事から何百年もたってから、物語として形になった。
作者とされる施耐庵と羅貫中の関係についても諸説あって、羅貫中が三国志演義の作者でもある。中国の四大奇書のうち2つが、同じ時期に同じような作られ方をしている。
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史実の宋江は1121年に乱を起こしている
宋江という人物は、実在の記録に残っている。『宋史』には、宣和三年(1121年)に宋江らが淮南で乱を起こしたと書かれている。徽宗の治世の終盤だ。
記録に残る規模は、ずいぶん小さい。『宋史』侯蒙伝には「宋江三十六人」とあり、108人ではない。研究では、この36は頭目の数を指すと見られている。それでも「官軍数万が手を出せなかった」と書かれているので、腕は立ったのだろう。
宋江は同じ年の五月、海州の知事だった張叔夜の伏兵にかかって船を焼かれ、捕らえられている。乱そのものは数か月で終わっている。実在した小さな反乱が、語り継がれるうちに三倍の人数になり、天から降りた魔星の物語になった。この膨らみ方そのものが水滸伝だと思う。
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なぜ北宋末期が舞台なのか
徽宗は書と絵に長けた皇帝として知られている。芸術家としては一流だった。
ところが政治のほうは側近に任せきりで、蔡京や高俅のような人物が力を持った。高俅は蹴鞠の腕を気に入られて出世した男で、水滸伝では林冲を陥れる役どころになる。役人が腐り、まっとうな者ほど居場所を失う。そういう時代でなければ、好漢が山に集まる話は成り立たない。
徽宗の庭のために、民が潰れていく
徽宗は艮岳という巨大な庭園を造るため、珍しい石や樹木を各地から都へ運ばせた。これを花石綱という。運搬の負担は民にのしかかった。
水滸伝でも楊志という好漢が、この花石綱の輸送に失敗して身を持ち崩す場面から登場する。物語の設定が、当時の実際の政策とつながっている。作者が数ある乱のなかからなぜ宋江の乱を選んだのか、そこは決め手を持っていない。同じ時期には方臘の乱という、もっと規模の大きい反乱も起きている。花石綱の負担が引き金のひとつになった乱だ。
外からも押されていた
このころの北宋は、北の遼に金を払って平和を買っていた。やがて新興の金と手を組んで遼を滅ぼすのだが、その金が今度は南下してくる。内側は腐り、外側からは押される。水滸伝の好漢たちが暴れているのは、そういう国だ。
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水滸伝の時代についてよくある質問
水滸伝は何王朝の話?
北宋だ。960年から1127年まで続いた王朝で、水滸伝が描くのはその末期にあたる。
何年の物語なの?
嘉祐三年(1058年)から宣和七年(1125年)まで。好漢が梁山泊に集まるのは終盤の1100年代前半になる。
宋江は実在したの?
実在の記録がある。『宋史』に宣和三年(1121年)の乱として記されている。史書に伝わる人数は36人で、108人は物語のなかで膨らんだ数だ。
三国志と水滸伝、どちらが古い時代の話?
三国志だ。2世紀から3世紀の話なので、水滸伝より900年ほど古い。小説として書かれた時期は、どちらも明の初めごろで近い。
いつ書かれた小説なの?
元の末から明の初め、14世紀ごろとされる。舞台の時代からは350年ほどあとになる。
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水滸伝ライターおとぼけの独り言
年表を作っていて、手が止まった箇所がある。物語が終わるのが1125年。北宋が滅ぶのが1127年。2年しかない。
梁山泊の好漢たちが暴れて、招安されて、方臘を討ちに行って、その多くが死ぬ。あの長い話が終わった2年後に、彼らが命がけで戻ろうとした国そのものが消えている。作者がそこまで計算して年代を置いたのかは分からない。ただ、あれだけの人数が国のために死んで、その国が2年で滅ぶという並びは、知って読むと後半の重さが変わってくるのかもしれない。





















