袁紹は後漢(25年~220年)末期の群雄の1人です。
一時は天下統一までいきましたが、建安5年(200年)の「官渡の戦い」で曹操に敗れました。
そこから、天下統一の覇権争いから脱落しました。ところで、この袁紹は黄巾の乱の平定で活躍していたという話を、あまり耳にしません。なぜなら、マンガやドラマでも描写されない内容だからです。そこで今回は袁紹と黄巾賊にまつわる話について解説します。
ヒッキー袁紹と5人の奔走の友
結論から言うと、袁紹は中平元年(184年)の黄巾の乱の平定には参加していません。納得出来ないという読者もいるかもしれません。
なぜなら、KOEIが発売している『真・三國無双』シリーズでは袁紹は参加しているからです。
しかし、あれはゲームです。架空の話をいくらでも創作できます。正史『三国志』によると、史実の袁紹は洛陽にいたようです。滅多に人にも会わずに、家に引きこもっていたそうです。ただし、張邈・何顒・許攸・呉子卿・伍瓊だけは交際していました。
要するに、袁紹は友達が少なかったのです。
袁紹はこの5人とは〝奔走の友〟・・・・・・心を許しあい危難にかけつける仲間の契りを結んだようです。
ちなみに、こんな変なことをしていたので、袁紹は中央政界から目をつけられていました。おかげで袁紹は叔父さんから注意を受けたそうです。
ちなみに5人の〝奔走の友〟はどうなったのかと言いますと、以下の通りです。
(1)張邈・・・・・・興平2年(195年)に曹操と戦って死ぬ。
(2)何顒・・・・・・時期は不明だが、董卓存命中に捕縛されて病死か自殺。
(3)許攸・・・・・・袁紹に仕えるが仲違いして曹操に仕える。
(4)呉子卿・・・・・・建安5年(200)に曹操暗殺を計画して死刑。
(5)伍瓊・・・・・・初平元年(190年)に董卓により死刑。
実に悲惨な結末ばかりです。しかも死刑になった友人に対して、袁紹は何もしてあげていません。
随分と安い友情ですね・・・・・・
黄巾の残党との戦い
袁紹が中平元年(184年)の戦に参加していないことは分かりました。しかし、袁紹は黄巾の残党の掃討戦には参加しています。
中平元年(184年)の黄巾の乱は、年内に中央本部を倒しましたが、その後も残党が暴れ回りました。
代表的なものは青州黄巾賊・河北の黒山賊・河東の白波賊です。初平3年(192年)に董卓が殺されたのを契機に、再び黄巾賊が勢力を盛り返しました。袁紹は河北の黒山賊の掃討に当たりました。
この時に袁紹のもとに呂布がいたので、彼と一緒に戦いました。戦いは袁紹の有利に進み黒山賊の于毒を討ちました。
また、総大将の張燕も袁紹に帰順しました。
この張燕の軍勢は建安10年(205年)に曹操に降伏するまで、袁紹の有力な軍として戦います。
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劉備によるかく乱作戦
建安5年(200年)に袁紹は黄巾賊関係の人物を張燕の他にも引き入れていました。それは劉備です。劉備は当時、曹操に敗れて袁紹のもとに逃げ込んでいました。そこで、袁紹は劉備と同盟関係を結びます。
劉備は黄巾賊出身の劉僻という人物と一緒に、曹操の後方をかく乱する作戦を立てます。しかし、曹操が派遣した曹仁により破られました。劉備は荊州の劉表のもとに亡命して、劉僻はどうなったのかは分かりません。
『三国志演義』では討たれたことになっています。
三国志ライター 晃の独り言
以上が袁紹と黄巾賊の関係についてです。
袁紹が黄巾の乱平定に参加していないことは、今回の記事を書いている時に筆者も初めて知りました。
まだまだ勉強することがいっぱいありますね。
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