曹操に軍略の才能を愛された郭嘉。郭嘉は曹操の軍師として活躍し、呂布討伐戦や鳥桓討伐戦で活躍。
曹操は彼が亡くなると「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」と悲しまれますが、最初から曹操の軍師として仕えたわけではありませんでした。彼が最初に仕官しようと考えていたのは袁紹だったのです。
どうして郭嘉は袁紹の元から離れたのか。また袁紹の軍師として活躍する可能性があったのかを紹介したいと思います
袁紹の元を訪れる
郭嘉は20歳ごろから天下が乱れていくと判断し、世間と付き合うのを止めて、あまり自分の名前を広がらないようにしていました。そのため多くの人々は郭嘉の名前を知らず、袁紹や曹操などの群雄たちも彼の名前を知りませんでした。
しかし郭嘉の名前は同郡出身の荀彧や郭図、辛評など見識の高い人物だけが知っていたそうです。そんな俗世とはあまり付き合わなかった郭嘉は曹操へ仕える前、同郡出身の郭図や辛評らが仕えていた袁紹の元を訪問。郭嘉は袁紹と色々な事について論じますが、郭嘉の中で袁紹の何かが気に食わなかったのでしょう。
郭嘉は袁紹の元を去っていきます。どうして郭嘉は袁紹の元を去っていったのでしょうか。
足りないものが多すぎる
郭嘉は袁紹の元を離れる前に同郷の郭図と辛評の二人へ忠告。郭嘉は「袁紹は我ら知恵者を使う機微について理解が足りず、色々な事に手を付けるが欠落している部分が多く、策略家でありながら、決断が鈍い人物です。袁紹が王者や覇者を目指そうとしても難しい事業となるでしょう」とアドバイス。
郭図と辛評は郭嘉の能力を認めつつも彼のアドバイスを聞き入れず、袁紹の元に留まる道を選択します。次いでにこの郭図と辛評にその後について紹介したいと思います。郭図は袁紹の配下の知恵者・沮授が皇帝を迎え入れるべしとの進言に真っ向から反対。
また郭図は官渡の戦いの時袁紹へ積極策を提案し、採用されるが、名将・張郃の悪口を袁紹へ言い募り、張郃を曹操のもとへ寝返らせてしまう大失敗をしてしまいます。その後郭図は袁紹の死後、長男・袁譚を助けて曹操や袁尚と戦いを続け、南皮攻城戦で袁譚が敗北すると一緒に討ち取られて亡くなってしまうのでした。
辛評は郭図と一緒に袁譚の味方になります。辛評は袁譚が袁尚へ攻撃した際、一緒に出陣しますが、その後正史三国志から姿を消してしまうので、この戦いで討ち取られてしまったのかもしれませんね。さて郭図と辛評の話が長くなりました。
ここから先は話を元に戻したいと思います。
足りない部分を補ったら袁紹の軍師になっていたかも
郭嘉は袁紹に不足している点を郭図と辛評へアドバイス後、袁紹の元を離れていきます。だがもし袁紹が自分の悪い所を補ったとしたら郭嘉は袁紹の配下として加わったのでしょうか。レンは袁紹が自らの悪い点を省みて、不足している部分を補うもしくは改善していれば郭嘉も袁紹の配下として加わっていたかもしれません。
もし郭嘉が袁紹の配下として加わっていれば、公孫瓚滅亡にあまり時間をかけず、河北の軍勢を南下させて曹操軍へ決戦を挑んでいたかもしれませんね。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は郭嘉が袁紹の配下になる可能性を紹介しました。もし郭嘉が袁紹の配下として加わった場合、曹操軍に勝利することが可能であったかもしれません。しかしそれは袁紹が覚醒して自分の悪い所を省みる必要があることを上記で紹介しましたが、家臣達も覚醒しないといけません。
郭図や辛評は袁紹配下の知恵者・田豊や沮授らに嫉妬していたのか彼らの悪口や彼らが袁紹へ提案した政策や策略に対して真っ向から反対意見を述べています。もしかしたら郭嘉が優れた計略を進言して公孫瓚らを討伐することに成功したら、郭図や辛評らが彼の発言に反対意見を提示し、郭嘉の足を引っ張ったかもしれません。
上記のような状態にならないよう、袁紹が彼らの教育をして家臣達を覚醒させないと郭嘉が覚醒した袁紹の元に居続けるのは難しかったと思います。
■参考文献 正史三国志魏書など
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