三国志は三国の熾烈な争いの歴史を書き記したものですが、三国は決して実力伯仲ではありません。どんどん力を増していく強大な魏と、蜀と呉、というのが筆者の見解です。
そしてこの三国の内、ある意味真っ先に崩壊していくのが蜀です。
その崩壊が始まったのは勇将関羽の死からですが、その関羽が守っていた荊州の土地の重要性を語っていきたいと思います。
荊州という立地
まずは荊州という土地の立地から見ていきましょう。荊州は長江の中流付近に広がっていた土地でした。この土地は蜀だけでなく魏、呉、共に重要な土地と認識されていたのか、三国でバラバラに所有地にされていました。
荊州は赤壁の戦い以降、北部を曹操が、中南部は劉備と孫権が所有していたのです。
この荊州は平地が多く、それぞれの国の交通の要となる重要な土地だったのです。このため、蜀はもちろん魏も呉もこぞって狙っている土地でした。
諸葛亮が説いた荊州の重要さ
荊州の重要さを表すポイントとして、諸葛亮の口添えもあります。荊州がまだ劉表のものであった頃に、劉備は劉表の元に身を寄せていました。この時に諸葛亮は隆中策という戦略を劉備に進言します。
この隆中策というのは、日本で馴染み深い言い方に変えれば天下三分の計ですね。
荊州は軍事的に極めて重要な要地なので、劉表から奪ってしまうように、というものです。これを劉備は拒否、とは言え最終的にどさくさ紛れに呉から奪い取ってしまうのですが……ともあれ荊州が戦略の要地と諸葛亮が言うほど、重要な土地であったことは推測できます。
蜀の立地的に、荊州は必要不可欠
ここで蜀の立地を考えて見ます。蜀というのは山岳地帯です。周囲をぐるりと囲むように山々が連なっており、天然の要塞になっています。つまり防衛をしやすい土地なのです。
しかしその一方で、蜀自身が攻める時も攻めにくいのです。大軍を狭い山岳地帯を抜けて移動させ、しかもその道中に補給路もしかなければいけません。
同じ長距離を移動するにしても、山々を越えて歩いていくのと、平地を移動するのでは訳が違います。なので開けた位置にある荊州を駐屯地にすることは、戦略的に見てとても重要でした。同時に山岳地帯では人々が住むのも大変でしょう。そういった人口面、居住区にも荊州は相応しい、蜀にとって必要不可欠な土地であったと言えます。
これだけ大切な土地だからこそ、関羽という武将に任せました。また関羽が討ち取られてしまってからは、坂を転げるように転落していったのもこの荊州を失ったことが大きな原因の一つになっていると思います。
関羽は実は荊州担当が不満だった?
さてここで最後に触れておきたいのが関羽と荊州について。
荊州の土地の重要性に関しては既に説明した通りです。そしてそんな大事な荊州だからこそ、相応の人物に任せなければいけません。そこで蜀は関羽に任せたのですが……実は関羽の方ではこのことを不満に思っていたと考えられます。
と言うのは劉備が漢中王になった年のことです。劉備はこの時に関羽を前将軍、黄忠を後将軍に任命しようとしました。
しかし諸葛亮はこの件について「張飛殿、馬超殿らは黄忠殿の活躍を見ているので文句は言わないでしょう。しかし荊州に残っていた関羽殿はそのことを知らないので納得しないと思います」と、進言しています。この推察はぴたりと当たり、関羽は黄忠という老将軍と同じ扱いを嫌って怒ってしまいます。
関羽はこれまで、荊州でずっと留守番のような位置にいました。皆が戦線で手柄を立てる中、ただ荊州を守るだけ……もちろんそれもまた重要な役割です。しかし事ここに至って黄忠と同じ扱いは嫌だ!とへそを曲げたような態度を見せる、これは関羽は自分が戦っていたらもっと手柄を立てた!とでも言いたかったのではないでしょうか?
どうもこの関羽の振る舞いは何だかいじけているような、へそを曲げた態度にしか見えないと筆者は感じるのです。そう思うと後の樊城の戦い、ここからの関羽の快進撃は今までの鬱憤が溜まっていたから。
やけに急いで攻め上がったのは自分も戦働きで功を上げたかったから……とも、考えられないでしょうか?
荊州を守っていたから関羽の死期を早めた、なんて考えると、少々皮肉ですけれどもね。
三国志ライター センの独り言
いかがでしたでしょうか。荊州という土地が蜀のみならず、三国それぞれにとっても重要な土地であったこと。
そしてそんな荊州を失ったからこそ蜀の崩壊は始まってしまったこと。歴史的が「動いた」瞬間は、荊州にあったのかもしれません。三国志というとどうしても武将に目が行ってしまいますが、たまには三国志に出てくる土地にも注目してみて下さいね。
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