三国時代の歴史をベースとした、胸躍る大河物語『三国志演義』。その中では何度か、物語の転換点となった大合戦が起こります。皆さんには、お気に入りの大合戦がありますでしょうか?
まず人気の高い合戦としては、赤壁の戦い、夷陵の戦い、五丈原の戦いとなるでしょうが、その次くらいに重要な転換点として、漢中争奪戦、という渋いところを選ぶ方もいるのでは?
劉備軍が単独で曹操軍に真正面から挑み、曹操の側が撤退してくれたという形ではありますが、「劉備軍の勝利」が結果となりました。言い方は悪いですが珍しい例です!
今回は、この漢中争奪戦について考えてみましょう。すなわちこの戦いで、曹操が撤退ではなく長期戦を選んだらどうなっていたか!
この記事の目次
ぶっちゃけ漢中争奪戦はどれだけ重要な局面だったの?
まずはこの漢中争奪戦の背景を整理しましょう。この戦いは劉備にとっても曹操にとっても、そしてその進捗を見守っていた孫権にとってもかなり重要な戦いでした。三つポイントがありました。
ひとつめは、この山深い土地が、益州から長安へ進軍する為の交通路になっていたこと。
既に益州をおさえた劉備の立場から見れば、次にこの漢中を取れば、曹操の一大拠点である長安に攻め込む前線基地にすることができますし、逆の曹操の側からとしては、漢中を取られてしまえば長安にプレッシャーをかけられてしまうことになります。
ふたつめは、三国時代よりもさらに昔の「項羽と劉邦の戦い」に関わります。かつて劉邦は、漢中を拠点にして項羽と戦い、漢中王という称号を名乗りました。
そして劉備は、その劉邦を祖とする漢王朝の復興を目標にしています。劉備にとって劉邦ゆかりの土地である漢中を領土に加えることには、天下に対する宣伝効果としても、抜群の意味があったのです。
もうひとつは、孫権の立場に関わります。この戦いの直前に、孫権は中国大陸の東側で、曹操軍を相手に「合肥の戦い」を起こし、曹操の領土を脅かしていました。つまりこの時期、孫権は孫権で、マジメに「反曹操」を継続しており、彼としても、友好国の劉備が漢中で曹操に打撃を与えてくれることにはメリットがあったのです。
これを曹操の立場から見れば、もし漢中の戦いで失敗すると、孫権をも調子づかせ背後を襲われかねない。そんな難しい局面にあったのです。
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実際には曹操の撤退に救われた蜀?
しかしこの時期の劉備軍は戦力が充実しており、重臣である夏侯淵を討ち取られるなど、戦況は曹操にとって簡単ではありませんでした。
漢中での対陣中、曹操もかなり判断を迷い、いら立っていたようです。たとえば食事中に、「鶏肋」という意味のないヒトリゴトを呟き、それを「撤退命令だ!」と勘違いした楊修を、ハライセのように処刑する珍事件も起こしています。
結果としては、それだけ悩んだ末に、曹操は漢中を棄てますが、はたして本当に撤退をしなければいけない理由があったのでしょうか?
曹操が引き上げていなかったとして、それでも曹操軍の方が実力は上、むしろ劉備軍の方が、長期戦に持ち込まれれば国力の差に苦しめられ、厳しい状況に追い込まれた筈です。そのうえ「漢中王」をいつまで経っても名乗れないという、ブランド戦略の支障もありました。
やむをえず「蜀王」を名乗るという判断をしたかもしれませんが、できれば「漢中王」を名乗って天下に号令をしたい。しかし曹操ががんばると、それができません。
というわけで、曹操が長期戦に持ち込めば、なんと劉備軍にかなり不利!曹操があのタイミングで撤退したのは、劉備にとって幸運だったわけです!
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イフ展開で見えてきたのはむしろ曹操の深謀!
それではなぜ、史実の曹操は撤退を判断したのか?考えられるポイントがあります。孫権の存在です。先述した通り、この頃の孫権は、真面目に対曹操戦を続け、劉備とも歩調を合わせていました。
史実において、孫権と劉備とが不仲になったのは、劉備がまさに漢中を手にしたあと。「益州に続き漢中まで手に入れたのだからそろそろ、いつか返してくれる約束だった荊州を割譲してくれないか」と孫権が申し出たのを、劉備がしぶったことによります。
孫権にしてみれば劉備が漢中王と名乗るまで成功しておきながら、ずるずると荊州を支配し続けていることに不信感を募らせたのです。結果は、夷陵の戦いという蜀呉激突まで、史実の展開はもつれました。
よもや?曹操はこれを何となく予感していたのでは?
「漢中を劉備にくれてやれば、劉備は領土を広げた上に漢中王を名乗り一時的には羽振りがよくなる。だがそのあと、蜀と呉が互いに争うようになるはず。それは結局、我々の利益ではないか」と考えていたとすれば?よもやここまで曹操には見えていた?!
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まとめ:楊修の死にすら意味があった!
もうひとつ、曹操の漢中撤退について見えてくることがあります。多くの人がツッコミを入れるところ、すなわち、「結局撤退なら、鶏肋事件で楊修を見せしめのように殺す必要もなかったのでは?」という問題についてです。
実は、これもまた曹操の深謀の可能性があります。曹操はかねてより、自分の帷幕に一定数いる「儒学者系」の官僚が、伝統にとらわれた価値観から漢王室に同情的であることを邪魔に思っていたフシがあります。
そして楊修は、そんな儒学者系官僚の中のオオモノでした。鶏肋事件も、曹操にしてみれば、「この機会に言いがかりをつけて楊修を斬り、儒学者系の連中に恐怖を与えよう」という示威行動だったのでは?
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三国志ライターYASHIROの独り言
イフ展開を考えているうちに、むしろ、実際の曹操の漢中撤退が深謀に満ちた最善手であることが見えてきてしまいました!
孫権と劉備を分断し、儒学者系の官僚を委縮させた、という2点が、ただの結果論だったのか?それとも曹操はそこまですべて読んだ上で撤退を判断したのか?
もし後者だとすれば、この一件についての曹操の智謀は、孔明にすら匹敵するような読みの深さだったということになりますが、皆さんは、どうお考えでしょうか?
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