三国時代に蜀漢と魏に仕えた孟達という人物がいました。軍人でありながら、字を書くことができ、手紙を通じて武将とやり取りをしていました。代表的な孟達の手紙は3通あります。背景もふまえながら、孟達の手紙を紹介していきます。
さよならの手紙を送る孟達
最初に仕えていた主君は蜀漢の劉璋でした。しかし、劉璋と劉備との仲が険悪になると劉備は孟達を近くに置くようになります。
ある日、劉備の親友・関羽が樊城を包囲。
呉の勢力が強大だったので、関羽を助けるよう孟達と劉封に指示します。しかし、孟達は拒否。
呉の呂蒙によって軍神・関羽は殺されます。桃園の契りを交わしたほどの友が殺されたため、劉備は孟達を憎むのです。
もともと孟達は漢中を攻めた際に仲間の劉封とも疎遠になっていました。そのうえ、主君の劉備からも恨みを買っては居場所がありません。「房陵・上庸(領地)をお返しし、さらに辞任して自分に追放の処分を課すことにしました。」という手紙を劉備に送り、蜀漢を去ります。つまり、手紙で先手を打って寝返ったのです。これが孟達の人生を変えた最初の手紙でした。
戦友への手紙を送る孟達
劉備に返還した上庸の地。魏に下った孟達は夏侯尚や徐晃と一緒に上庸を取返します。そして、上庸の地を守っていたかつての戦友・劉封へと手紙を送るのです。
「漢中王(劉備)は心中すでに決断を下しており、あなたに疑念を抱いております。~中略~北面して君主(魏の曹丕)に仕え、それによって国の大綱を正されれば、旧知をすてたことにはなりません。」こうして劉封を魏に寝返るよう促します。同時に、寝返らなければ劉備に殺されかねないとも助言。
ところが孟達からの手紙を信じなかった劉封、帰国すると劉備から死ぬように命じられます。関羽救援の責任を取らされたのです。2通目の手紙が劉封の心に響くことはありませんでした。
裏切りの手紙を送る孟達
孟達を手厚く保護した曹丕。やがて天に召されます。
後継は曹叡でした。
皇帝というバックボーンがなくなった孟達は、ひそかに蜀漢の諸葛亮と連絡を取り合っていました。
理由は、いつか魏で厄介払いされると感じたためです。
魔が差した孟達を利用したのが諸葛亮です。当時、蜀漢は魏のいる北へと攻め入るプロジェクトを立て、なんとかして魏を陥れようとしていたのです。諸葛亮は孟達に魏を裏切るよう誘導します。
しかし、優柔不断な態度をとった孟達。なかなか諸葛亮の求めに応じません。そして、諸葛亮は同じく魏の申儀という人物に孟達にスパイの恐れがあると漏らします。同じ魏にありながら、孟達とは犬猿の仲だった申儀、皇帝である曹叡に告げ口。皇帝の知るところとなります。
さらに孟達を怪しいとにらんでいた魏の司馬懿は罠を張ります。クーデターを起こそうとしていた孟達の決心を手紙によってにぶらせるのです。
ほどなくクーデターを開始した孟達、きっかけは諸葛亮と司馬懿からの手紙でノイローゼになったためです。蜀と魏を結ぶ道を申儀が遮断。新城郡にいた孟達は内通していた諸葛亮に手紙を送ります。
「司馬懿が城(新城郡)に来るには、まず言上して帝意を汲まねばならず、手続きも含めれば一ヶ月近くかかるでしょう。」ところが大軍を率いたにも関わらず司馬懿は一週間ほどで新城郡に到着。孟達は慌てて、部下からの信用を失います。さらに蜀漢からの援軍は道を封鎖されて来ることができません。
ほどなく孟達は司馬懿に包囲され、たったの16日で捕らわれてしまいます。歴史書によれば、司馬懿は孟達の部下をヘッドハンティングし、城門を開けさせたそうです。
三国志ライター上海くじらの独り言
手紙によって亡命し、手紙によってクーデターを起こすことになった孟達。自業自得とも言えますが、それ以上に仲間内からの信頼が得られなかったのでしょう。もし、魏で良好な関係を築いていれば、申儀が皇帝に密告することもなかったはずです。手紙を書くよりも詩人・李白のように酒を飲んで、親交を深めた方がよほどうまくいったことでしょう。
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