江東でメキメキとその力を蓄えていた孫権。孫権は亡き父・孫堅と兄・孫策が成し遂げられなかった覇業を遂げるべく、期が熟す時が来るまで静かに牙を研ごうと考えていました。ところが、ある日突然曹操からお手紙が。何が書いてあるのかな?飲み会の誘いかな?ところが、手紙を読んだ孫権はびっくり!すぐさま重臣たちを呼び出して会議を開いたのでした。
曹家と孫家は姻戚関係にあった
『三国志』といえば蜀の劉備VS魏の曹操という対立軸があって、呉の孫権が劉備とくっついたり離れたりしているようなイメージがありますよね。このように、なんとなくわき役っぽいイメージの呉ですが、実際はその力は絶大で、曹操からかねてより危険視されていたようです。
孫権の父・孫堅は若い曹操を置いてけぼりにして董卓を追い込むほどの力を見せた豪傑でしたし、兄の孫策も火矢のように江東に勢力を拡大していった期待のルーキーでした。そんな孫家を曹操が見逃すはずはありません。しかし、曹操はその頃それほど力も無く、どう計算しても孫策を破ることはできないと考えたようです。
しかし、勝たないということで曹操はとりあえず孫策を捨て置いたのかと言えばそういうわけではありませんでした。曹操は孫策に「我が家と姻戚関係を結ぼうぜ!」と縁談を持って行ったのです。孫策はこの申し出を受け入れて孫匡に曹操の姪子を結婚させ、曹彰に孫策の姪子を結婚させたのでした。
これで曹操も一安心したわけですが、孫策は婚姻関係などどうでもいいと思っていたらしく中原に出る機会を虎視眈々と狙い続けていました。
曹操「中原ではなく呉で一緒に鹿を追いましょう♪」
しかし、中原進出を狙っていた孫策は孫策に恨みを抱いていた刺客に襲われたことにより命を落としてしまいます。そこで後を継いだのが孫策の弟・孫権でした。孫権は兄から受け継いだ重臣たちと力を合わせ、孫家による江東支配をより盤石なものにしていきました。
そんな折、曹操からこんな手紙が届いたのです。「水軍80万を呉の地に連れて行くから、孫権くんと一緒に狩りをしたいです。」
へぇ~。狩り好きな曹操くんは、姻戚関係を結んで仲良くなった孫権くんと呉にしかいない動物を狩りに出かけようと言っているのかな?なんてボケて受け流したいところですが、これはそんな生易しいものではありません。狩りというのは戦争のこと。
昔から天下を争うことを「中原に鹿を追う」と言っていましたから、曹操はこの言葉を踏まえて宣戦布告をしてきたのです。人によっては意味がわからないまま受け流してしまいそう…。言葉巧みな曹操らしい回りくどい言い回しですね。しかし、孫権は瞬時にその真意を理解。群臣たちをすぐに呼び集めたのでした。
呉の重臣たち、曹操にビビる
孫権も滅茶苦茶ビビったと思いますが、曹操の何ともいやらしい手紙を見せられた重臣たちもビビりまくり。80万て!80万てヤバない!?その数に圧倒された重臣たちは及び腰。
特に重臣たちの中でも古株で孫権の父のような存在であった張昭は戦争に猛反対。「もう降伏しよう…。」誰もがそう思っていたのでした。しかし、その中である男だけが売られた喧嘩を買うべきだと唱えたのでした。
魯粛の奔走
その男というのは、皆さんもよくご存知の魯粛です。『三国志演義』ではお人好しな性格が強調されて呉のゆるキャラのようなイメージを持たれている彼ですが、実はこのとき誰よりも機敏に動いていました。
荊州で劉表が亡くなったときにはいち早く弔問に訪れた際、呉が曹操から宣戦布告を受けたことを知った魯粛は南郡に走り、そこで更に劉琮が曹操に降伏し、劉備が南に追っ払われたということを知ります。魯粛は劉備と同盟すれば曹操から呉を守ることができると考え、更に劉備の元へと走ったのでした。こうして諸葛亮という使者を得た魯粛は呉に帰り、更に呉の外に出ていた周瑜を呼び戻して孫権に曹操と戦をすることを決意させたのです。
三国志ライターchopsticksの独り言
これが世にも有名な赤壁の戦いの直前の呉の様子だったわけですが、魯粛の機敏さには本当に驚かされますね。孫権は元々戦をしたいと考えていたとも言われていますが、やはり魯粛なしでは曹操と戦をする決意をすることはできなかったのではないでしょうか。
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