劉備軍の最盛期は、やはり定軍山の戦いから樊城の戦いの頃でしょう。
漢中方面で起きた定軍山の戦いでは、夏侯淵を討ち取るという大金星を挙げ、荊州方面で起きた樊城の戦いでは、曹仁と于禁の軍を壊滅寸前に追い込んでいました。
ところがこの進撃ムードは突然終了し、以降、蜀はどんどん衰退していくことになります。そのターニングポイントが、荊州方面で順調に樊城を攻めていたはずの関羽の敗北と、その死でした。
この記事の目次
突如起こった孫権軍の背後奇襲という最悪の展開!
関羽の死の背景はなかなか複雑ですが、今回は、物語としてかなり脚色されているとはいえ、整理されていてわかりやすい『三国志演義』に沿っておさらいしましょう。諸葛亮や張飛を含んだ劉備軍の主力が漢中方面を攻めていた間、荊州のいわば留守番をしていたのが、関羽でした。
しかし関羽のミッションは、留守の荊州を防衛するというだけではありませんでした。荊州方面からもチャンスを見て樊城に向けて北上し、曹操軍に対する二正面作戦の一翼を展開することも期待されていたのです。劉備本隊が漢中を攻めている時に、呼応して関羽たちが樊城を攻めるという、壮大な戦略!
こうして起きた、樊城への攻撃!しかし途中まではうまく行っていたこの戦いは、三国志のもう一人の英雄、孫権が、突如、その関羽の背後を攻撃したことで大崩壊するのです。
曹操軍と孫権軍との双方に挟撃されるという最悪の事態の中、関羽は麦城という拠点に何とか逃げ延びたものの、結局は孫権軍の呂蒙の追撃に追いつかれ、捕らえられ、処刑されてしまったのです。
こちらもCHECK
-
荊州奪還戦!実質的に関羽の首を取ったのは呂蒙ではなく陸遜だった?
続きを見る
いささかあっけなさすぎる?今までの劉備軍らしくない関羽の転落
ですが、ちょっと考え直してみましょう。この関羽の死は、それまでの劉備軍の「粘り強さ」の戦歴と比較すると、いささかあっけなさすぎます。そもそも、このように、劉備なり関羽なり張飛なりが「やらかして大ピンチ」な時、『三国志演義』の展開でいえば、いつも何とかしてくれるあの人が、この時は機能していないのです。
そうです、劉備軍の軍師、諸葛亮孔明です。いつもだったら、関羽が麦城で孤立している時、「大丈夫です関羽将軍。こういうこともあろうかと、準備していた秘策があります」と颯爽と現れるのが孔明軍師の筈なのに!
おそらく、その理由は単純そうです。諸葛亮が颯爽と荊州に駆けつけるには、益州と荊州の距離が、さすがに長すぎたのでしょう。ですが!待ってください!
実際にはもっと後の「夷陵の戦い」の時の話になりますが、似たようなシチュエーションで、諸葛亮はしかし、遠地の味方を救出していませんでしたか?そう、諸葛孔明は、同じように、劉備が荊州で孤立無援のピンチになった時は、遠い益州から自分は動かずに、ある秘策で劉備を無事に生還させたではないですか!謎の迷宮、「石兵八陣」を建築しておくこと!
こちらもCHECK
-
石兵八陣(八卦陣)は実在した?陸遜が夷陵の戦いで破れなかった八卦陣
続きを見る
こうすれば諸葛亮は関羽を救えた!「石兵八陣」が呂蒙に炸裂!
そうです!諸葛亮はこうすべきだったのでは?すなわち、万一、関羽が荊州で窮地に陥った場合に備えて、この時代に、すでに、麦城の西に「石兵八陣」を工事してしまうこと!
そして関羽の部下で信頼できる参謀、おそらく馬良あたりに、「石兵八陣」の場所と、その脱出方法を事前に教授しておくこと!そうすれば麦城でピンチになった関羽に、馬良がそっと、「孔明軍師はこんな時のために、秘策を準備していたのですよ」と告げることでしょう。荊州を守り切れず自信を失っていた関羽、この話を聞いて、改めて諸葛亮の善意に感謝し、供を連れて石兵八陣方面に向かうでしょう。
この時に関羽を追撃していた呉将は呂蒙!優れた軍人とされていますが、後にかの陸遜ですら破れなかった石兵八陣を、呂蒙が突破できるとは思えません!ボロボロのひどい目にあい、もしかすると、この時点で呂蒙は悔しさのあまり憤死してくれるかもしれません!
こちらもCHECK
-
関羽の死因、実は劉備の手によるものだった!?
続きを見る
まとめ:関羽が生きていれば後は挽回が可能な筈!
もちろん、こんな声があるでしょう。「しかし、このタイミングで秘策の石兵八陣を見せてしまったら、後の夷陵の戦いで劉備軍は同じ策を使えず、苦戦するはめになるのでは?」
大丈夫です。関羽が生還すれば、そもそも、関羽の弔い合戦である「夷陵の戦い」が起こらないのです。よって、ここで出し惜しみせず、関羽救出のために石兵八陣を、使っちゃってもよい筈です!
そもそも関羽さえ生還していれば、その関羽を先頭に、荊州の再奪還を目的にした孫権への逆襲戦をすぐに仕掛けることができます。むしろ関羽が怒り狂って戻ってきた上に、呂蒙が麦城の西で謎の妖術で怪死した衝撃の直後となると、孫権のほうから、「あのときは悪かった!」と再同盟を申し出てくるかもしれません。
こちらもCHECK
-
関羽の死因は捕虜となり斬首….味方たちの心が離れていった軍神の最期
続きを見る
三国志ライターYASHIROの独り言
ここで劉備側の持ち出す条件は、ひとつです。「荊州は全部返してもらわなくていい。今後の火種をなくすためにも分割しよう。ただし!荊州の一部をくれてやるから、我々が漢中方面から曹操を攻める間、今度は孫権殿が、荊州から北上して樊城を落としなさい」
「ハイ」
おとなしくなった孫権軍に、荊州の一部割譲を条件に、今度こそ、真面目に対曹操戦線に参加してもらえれば、劉備本隊が関羽を加えて漢中を、そしてすっかり言うことをきくようになった孫権軍が樊城を攻めるという、壮大な二正面作戦が発動!劉備軍の負担は減り、孫権軍は真面目に戦い、これで曹操軍は更に窮地に追い込まれます。
つまり、孔明の最初の「天下三分の計」案、「天下を三つに分けた上で、劉備と孫権は手を組み、曹操を追いつめる」というプランは、理想通りに百パーセント稼働します!そのためには、関羽には生還してもらわないといけない。そしてそのためには、石兵八陣を、このタイミングで、対呂蒙で発動すべし!と、私はプランを練りましたが、このシナリオ、いかがでしょう?
こちらもCHECK
-
もし関羽が呉に降伏していたら世界史はどうなった?救われたかもしれない命の数は数億人?
続きを見る
関羽と霊異伝説 清朝期のユーラシア世界と帝国版図 / 太田出