張遼といえば10万人の敵中に800人で突撃をかけるような猛将、諸葛亮といえば羽根扇より重いものを持ったことがなさそうな謀士。こんなイメージでとらえられているお二人ですが、十四世紀に中国で刊行された「三国志平話」では、張遼が知性派に、諸葛亮が武闘派になっているからびっくりです。
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剛勇キャラの張遼が「智嚢先生」
張遼は遊牧民が多く住む并州の出身で、同じく并州出身の人外レベルの最強武将・呂布の元部下でした(陳寿は呂布のことを虎に喩えています)。
このことから、張遼のことを騎馬民族さながらの勇猛な武将としてとらえるのが一般的なイメージかと思います。冷静沈着な采配と、ここぞという時の剛勇とで数々の戦勝をおさめている知勇兼備の名将ですが、軍師キャラではありません。ところが、三国志平話では、張遼は「智嚢先生」と呼ばれ、曹操の軍師となっております。
三国志平話では謀士になっている張遼
三国志平話で袁紹が曹操に対する軍事行動を起こした時、曹操はそれへの対策として下記のような人事を行っています。
智嚢先生・張遼は大将・曹仁のアドバイザーということでしょうかね……。三国志平話の物語中で張遼が剛勇をふるうような場面はなく、曹操のもとから去ろうとする関羽を引き留めるための策を考えたり、諸葛亮の計略を読んだりするという謀士としての役割が与えられています。曹操陣営にはすぐれた謀士がたくさんいそうなものなのに、どうしてこんなことに?
物語がほとんど武将で構成されている
どうして猛将キャラの張遼が軍師なのかと思ってよくよく見ると、三国志平話には軍師的な人物がほとんど登場していないことに気付きました。郭嘉も荀彧も一文字も出てきません。賈詡には二カ所だけせりふがありますが、一つ目は馬騰のことを曹操に紹介するだけのせりふ、二つ目は献帝の皇太子が曹操を暗殺しようとしていると告げ口するだけのせりふで、なんの見せ場もありません。ほとんどモブキャラです。
三国志平話は大衆向けのエンタメ作品ですので、アクションで惹き付ける武将に人気が集まり、軍師・謀士の類には注目されなかったため役割が与えられなかったのでしょう。代わりに武将の中でも知勇兼備のイメージのある張遼が軍師役を担わされたのだろうと思います。
軍師キャラなのに武闘派な諸葛亮
三国志平話における諸葛亮は、軍師キャラでありながら物語の中で役割を与えられている希有な存在です。主役の劉備・関羽・張飛の三兄弟を助ける諸葛亮は大衆にも人気があったためでしょう。しかし、三国志平話の中の諸葛亮は三国志演義のような賢くて努力家で忠臣なだけの人物ではなく、人々をあっと驚かせるような派手なアクションをする武闘派な一面も見せています。三国志平話の読者層に魅力を感じてもらうためには豪快さが必須だったのでしょう。そのアクションは、諸葛亮が劉備と孫権の同盟交渉に行った時におこります。
あの亮様が曹操からの使者を一刀両断に!
西暦208年、南方への遠征を始めた曹操に追われて苦境に陥った劉備は、長江下流域に地盤を築いていた孫権と同盟を結んで曹操に抵抗したいと考え、諸葛亮を孫権のところに派遣して同盟の交渉にあたらせました。交渉が難航する中、三国志平話では曹操から孫権への使者がたまたま諸葛亮と鉢合わせします。孫権が曹操に懐柔されてしまえば劉備は孤立してしまうため、これはまずいと焦った諸葛亮、上着を結び裾をからげて剣を抜き放ち、階段を駆け上って曹操の使者を斬り殺しました。
「劉皇叔が曹操にやられれば、次はあなたの番ですぞ!」
「お、おう……」
諸葛亮の蛮行と脅しに気圧されたのか、孫権は使者を斬った諸葛亮を全くとがめませんでした。(※原文では「お、おう……」とは言っていません)諸葛亮が同盟の交渉を行うこのシーン、三国志演義では同盟反対の論をとなえる孫権の臣下たちを諸葛亮が次々に論破するという弁舌の見せ場なのですが、三国志平話ではアクションと恫喝の見せ場となっております。
三国志ライター よかミカンの独り言
物語のほとんどが武将を中心として進められ、軍師でもアクションをしなければならないという三国志平話の世界。三国志平話の読者層が知謀とか弁舌とかいう小難しいことに興味を抱くような人たちではなかったことを物語っているように思います。
また、三国志平話は講談や芝居をもとにしてまとめられたものだということなので、小難しい長ぜりふは講談や芝居に適さないという事情も影響しているのだろうと思います。白刃を抜き放ち、裾をからげて階段を駆上る諸葛亮。そんな姿を舞台で見せてもらったら、面白いでしょうねぇ……。
【参考文献】
翻訳本:『三国志平話』二階堂善弘/中川諭 訳注 株式会社光栄 1999年3月5日
原文:维基文库 自由读书馆 全相平话/14 三国志评话巻上(インターネット)