三国志の中でも謎めいた美青年として登場する「陸遜(りくそん)」は、兵法に通じており、魅力ある人物です。シュミレーションゲームでは、容姿端麗で、武力もあり、知力・政治力・統率力・魅力共に一級品です。どんな場面でも活躍できるのが陸遜なのです。
孫氏と陸氏の因縁
陸遜の名前が初めて登場するのが、袁術(えんじゅつ)と陸康(りくこう)の戦いの時です。もともと友好関係にあった両者でしたが、袁術からの兵糧の援助を断り、敵対関係になってしまったのです。陸康は、一族の血を守るために親戚縁者の一部を故郷の呉郡に帰すことに決めます。その際、一族を率いたのが陸遜でした。陸遜は幼い頃に父を失い、同族の陸康のもとに仕えていましたから、陸氏の当主の血筋ではないのですが、陸康の子の陸績(りくせき)が若かったために、陸遜が取りまとめ役となったのです。
そんな陸康の城を包囲し、落城させたのが、袁術の先鋒役だった孫策(そんさく)でした。陸康は落城後に病没しています。
呉郡を孫氏が支配する
その後、長江を渡り、呉郡にも孫策の軍勢が攻めてきます。当時、江東の大勢力は劉繇(りゅうよう)でしたが、孫策の進撃を食い止めることができず、揚州一帯は孫策に制圧されてしまいます。
呉郡の太守だったのは許貢(きょこう)ですが、孫策をこのまま放置するとたいへんな脅威になると考え、朝廷に訴え出ました。その密書を孫策が手にいれ、許貢は処刑されてしまいます。
すると、許貢の子や食客が、父の仇を討つべく、孫策の暗殺を画策。孫策は襲撃され、その傷がもとで、わずか26歳という若さで病没してしまうことになるのです。
孫策の跡を継いだのは、弟の孫権でした。こちらは18歳です。呉郡の四姓という異名を持つほどの有力豪族だった陸遜は、この時になって初めて孫氏に仕えることになります。陸遜21歳の頃の話です。
順調に出世し、孫策の娘を正妻とする
陸遜は県政を取り仕切り、その施策で干ばつに苦しむ県を救い、山越族を討伐し、兵として吸収していくやり方で大きな功績をあげていきます。陸遜の才能を認めた孫権(そんけん)は、兄・孫策の娘を陸遜に嫁がせます。これにより、憎しみあっていた陸氏と孫氏は、固い絆で結ばれることになったのです。
孫権にとっては自らの地盤を固める意味合いもあったのでしょう。陸遜と孫策の娘の間に生まれた子が、後に父の汚名を晴らし、呉の大国柱となる陸抗(りくこう)になります。
総指揮官としての才能を開花
陸遜の名を広く知らしめたのが、222年の「夷陵の戦い」です。関羽(かんう)を失い、領土であった荊州を奪われた蜀の劉備は(りゅうび)、その恥辱を雪ぐため、主力を率いて孫権の領土に侵攻してきました。
周瑜(しゅうゆ)も亡く、魯粛(ろしゅく)も呂蒙(りょもう)も亡くなった状態で、この迎撃の総司令官に任じられたのが陸遜です。
陸遜は勇み立つ味方を抑え続け、ワンチャンスで劉備を火計でもって撃退しました。劉備は数万の兵を失い、失意の中、白帝城で病没します。孫権はこの功績を称え、陸遜に輔国将軍の称号を与え、荊州の牧に任じ、江陵侯に封じました。大出世です。
元祖・二刀流
陸遜はその後、魏の侵攻も防ぎ、孫権から絶大な信頼を受けることになります。そして、荊州の最前線で軍部の総司令官をしながら、さらに国政にも大きな影響力を持つ丞相の地位にまでのぼりつめていきます。軍事・国政の両方を取り仕切ったのです。まさに元祖二刀流の活躍ぶりですね。
蜀の中心人物である諸葛孔明(しょかつこうめい)とまったく同じような存在感です。陸遜がいる限り、呉が揺らぐことはないだろうと考えらえていたはずです。
三国志ライターろひもとの独り言
しかし最終的には、老害に侵された孫権の後継者争いに巻き込まれ、憤死することになります。孫氏が呉郡に確かな根を張り、皇帝にまでなれたのは、まさに陸遜がいたから可能だったのではないでしょうか。三国志正史を記した陳寿は、陸遜を「社稷の臣」と評価しています。類まれなる才能を発揮し、最期まで忠義を貫いた陸遜を悪く言う人は少ないでしょう。
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