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呂布を裏切った魏続と宋憲![八健将の裏切りの真相とは]

2024年10月6日


 

三国志演義では著名な呂布(りょふ)には、八健将という配下の諸将を抱えていました。八健将は八人の武将からなり、それぞれに序列が決められています。

 

 

上の序列から、張遼(ちょうりょう)、臧覇(ぞうは)、郝萌(かくぼう)曹性(そうせい)成廉(せいれん)、魏続(ぎぞく)>宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)となります。序列1位の張遼(ちょうりょう)は魏の将として著名ですし、2位の臧覇(ぞうは)は正史では呂布(りょふ)の盟友として知られています。

 

では、逆に下の序列の将はどのような将だったのでしょうか。今回は八健将の序列でも下位に位置する六位の魏続(ぎぞく)と七位の宋憲(そうけん)について正史と演義の両方から紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正史での魏続と宋憲

 

魏続(ぎぞく)は呂布(りょふ)の配下ですが、呂布(りょふ)の縁戚関係にあったことが知られています。そのため、呂布(りょふ)もいつも気にかけていたようです。呂布(りょふ)は配下に、高順(こうじゅん)というかなりの名将を持っていましたが、彼とは何故か折り合いが合いませんでした。

 

呂布(りょふ)はやがて高順(こうじゅん)を疎んじるようになり、高順(こうじゅん)の率いていた勇猛な兵を魏続(ぎぞく)の兵と交換してしまいました。高順(こうじゅん)の兵は恐らく呂布(りょふ)軍の中でも精鋭でしたので、すごい身内贔屓です。宋憲(そうけん)は、呂布(りょふ)の配下として彼につき従い、久しく戦い続けていました。彼の経歴は正史では、あまり残されていません。

 

 

正史の魏続と宋憲の活躍

 

魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)の正史での唯一の活躍は、呂布(りょふ)を裏切り滅亡に招いたことです。呂布(りょふ)はその生涯最後の戦いで、曹操(そうそう)と下邳城で戦っていました。この時、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)共謀して呂布(りょふ)を裏切り、呂布(りょふ)を始めその部下の陳宮(ちんきゅう)と高順(こうじゅん)を捕縛し、曹操軍を城内に招き入れました。

 

そのため、呂布(りょふ)軍は敗北しました。最後に呂布(りょふ)は斬首となります。しかし、その時曹操(そうそう)との以下のような会話が記録されています。呂布(りょふ)は敗北したことについて、呂布(りょふ)「諸将が我が恩義を忘れて寝返ったせいで、こうなっただけで俺はまだ負けていない。」

 

曹操は「お前は妻を裏切り、諸将の妻を愛した。どこに恩義があるというのか?」ここで言う諸将には魏続(ぎぞく)が含まれています。呂布(りょふ)もこの切り替えしには、赤面しかありません。これ以降、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)は正史に記述がありません。

 

 

 

演義での活躍

 

 

三国志演義では、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)を含めた八健将は呂布(りょふ)とともに「濮陽の戦い」で曹操(そうそう)軍と戦います。その戦いで、参謀の陳宮(ちんきゅう)の計で魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)らは、一時は曹操(そうそう)を追い詰めることができました。その後、曹操(そうそう)軍と呂布(りょふ)軍の戦いは中断した後に再開し、ある時濮陽の豪族、田氏(でんし)の裏切りにより呂布(りょふ)は城を追われました。敗北した呂布(りょふ)は当時目立った接点もない小沛城の劉備(りゅうび)の元に落ち延びます。

 

 

娘の護衛を任される宋憲と魏続

 

この頃、袁術(えんじゅつ)の使者として韓胤(かんいん)が呂布(りょふ)の元を訪ねます。韓胤(かんいん)は呂布(りょふ)の娘と袁術(えんじゅつ)の息子との縁談を持ちかけます。呂布(りょふ)は承知し、袁術(えんじゅつ)は報告を受けると、韓胤(かんいん)に結納の品を届けさせました。

 

呂布(りょふ)は娘に準備させると、宋憲(そうけん)・魏続(ぎぞく)に命じて韓胤(かんいん)とともに娘を送らせました。ところが、この縁談は曹操(そうそう)の計で破談となってしまいます。

 

 

 

張飛に敗北

 

その後、宋憲(そうけん)・魏続(ぎぞく)が呂布(りょふ)の命令により山東で良馬三百頭を買いましたが、、山賊を騙った劉備(りゅうび)の義弟、張飛(ちょうひ)に奪われてしまいます。張飛(ちょうひ)は呂布(りょふ)を良く思っていませんでした。

 

このことで劉備(りょうび)と呂布(りょふ)に決定的な亀裂が入ります。呂布(りょふ)軍から攻撃を受けた劉備(りゅうび)軍は城からの脱出を試みます。張飛(ちょうひ)が先陣を切って宋憲(そうけん)と魏続(ぎぞく)らの軍を突破し、逃げました。宋憲(そうけん)と魏続(ぎぞく)は二人掛かりで張飛(ちょうひ)に易々突破されてしまったようです。

 

 

袁術軍を撃退

 

 

呂布(りょふ)は徐州を手に入れましたが、今度は曹操(そうそう)の計で、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)らに頼んでいた袁術(えんじゅつ)との縁談が破談となった上に、呂布(りょふ)は袁術(えんじゅつ)と敵対関係となってしまいます。袁術(えんじゅつ)が徐州に攻め入ると、その配下、雷薄(らいはく)と陳蘭(ちんらん)に攻撃させます。魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)はこの時、陳蘭(ちんらん)を撃退しています。

 

 

袁術に助けを求めるも・・・

 

曹操(そうそう)、劉備(りゅうび)らは袁術(えんじゅつ)と呂布(りょふ)の中を裂いたことで、チャンスと見て呂布(りょふ)軍を討とうとします。この戦いの最中、部下の裏切りにあった呂布(りょふ)軍は、下邳の城に逃げ込みましたが、城も囲まれピンチに陥ります。呂布(りょふ)は何とか袁術(えんじゅつ)と内通しようとしますが、曹操(そうそう)に目論見が露見しており、袁術(えんじゅつ)と手を結べなくなってしまいました。

 

 

ピンチの主君を裏切る魏続と宋憲

 

その後、呂布(りょふ)は彼を裏切った部下によって陥れられます。裏切ったのは、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)でした。曹操(そうそう)は下邳の城に攻め込み、呂布(りょふ)はそれに応戦しました。夜明けから昼間まで戦って後、曹操(そうそう)軍が退きました。

 

呂布(りょふ)が疲れ果てて眠った隙に宋憲(そうけん)、魏続(ぎぞく)に縛られてしまった。捕らわれた呂布(りょふ)と部下は斬首され、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)は曹操(そうそう)の軍門に入ります。

 

 

その後の宋憲

 

その後時を経て、曹操(そうそう)とその長年のライバルである袁紹(えんしょう)の戦いがついに始まるという時が着ました。世に言う官渡の戦いです。袁紹(えんしょう)軍の名将、顔良(がんりょう)が十万の兵を率いて陣を張ります。

 

曹操(そうそう)は十五万の軍勢を三手に分け、まず五万の軍勢に先頭に陣を引かせました。曹操(そうそう)は宋憲(そうけん)に言いました。曹操(そうそう)「お前は呂布(りょふ)の配下の中でも名だたる猛将と聞いている。袁紹(えんしょう)の将、顔良(がんりょう)を討ちとってみよ。」宋憲(そうけん)は顔良(がんりょう)に立ち向かいますが、三合しないうちに薙刀で切り落とされてしまいました。これには、曹操(そうそう)も開いた口がふさがりません。

 

 

魏続の最後

 

唖然としている曹操(そうそう)に、魏続(ぎぞく)が言いました。「朋輩の仇、拙者に討たせてくださいませ。」曹操(そうそう)が許可すると、魏続(ぎぞく)は顔良(がんりょう)を罵倒しながら突撃します。しかし、顔良(がんりょう)は無言で切りかかり、ただ一合で真っ二つにしてしまいました。曹操(そうそう)は一撃でやられた魏続(ぎぞく)を見て、さらに驚愕します。結局、当時曹操(そうそう)に降っていた関羽(かんう)が倒すこととなりました。

 

 

三国志ライターFMの独り言

 

魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)は、正史では記載は非常に少ないのですが、呂布(りょふ)の滅亡に関わる等、時代の中で大きな役目を果たしています。また、魏続(ぎぞく)は高順(こうじゅん)の部下を任せられた等、こうした史実は一方では呂布(りょふ)の身内贔屓や自己中心的な面が現われているところでもあります。

 

そして身内贔屓の割りに、「諸将が恩義を忘れて~」の発言から分かるように結局全ては自分のために見えます。魏続(ぎぞく)は目をかけられていたようですが、この記録から考えると「本当にそう?」と思ってしまいます。演義でも、彼らは史実に忠実に描かれています。ただ、彼らは物語を盛り上げる役として張飛(ちょうひ)や顔良(がんりょう)にやられる役等が追加されており、引き立て役のようにもなっています。

 

 

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三国志は、大昔の出来事ですが、物語をいろいろな視点や切り口で見ていくと、新しくて面白い発見があるのが好きです。 人物像や対人関係、出来事、時代背景、逸話等々、古い話とはいえ、学ぶべきところはたくさんあります。 埃をかぶせておくにはもったいない、賢人たちの誇りがあります。

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