諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)が指揮を執った戦いといえば、正史では北伐がもっとも有名です。しかし、北伐以前にも、孔明が指揮を執った大作戦があったのです。
それが三国志演義では、南蛮征伐と呼ばれる戦いですが、演義のそれはスピンオフで誇張と空想の産物であり、実際の戦いを正確に伝えたものではありません。そこで、今回は正史に基づいた、孔明の南中遠征を解説図付きで分かりやすく説明したいと思います。
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南中は蜀漢の生命線だった
南中は地図上では、益州の下、交州の隣、さらに四方には、タイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマーが控えています。ここからは、塩が取れるばかりでなく、金銀も産出し高原なので放牧にも適していて、馬も多く飼育されていました。呉は、馬の産地がないので、蜀から馬を購入していた程でした。また、メコン河を利用する事で、古くから貿易が盛んであり、蜀の竹や布が河を下って東南アジアに運ばれ、珊瑚や真珠と交換されました。南中こそは、蜀漢の富の源泉であり、ここを失う事は、まさに、なんちゅうこっちゃ(ダジャレ ぷぷっ)で、南中の反乱は、どうしても捨ててはおけない国家の一大事だったのです。
劉備の死後、叟族の高定が再度蜂起する
劉備(りゅうび)は214年に益州を制圧すると、南中に安遠将軍の鄧方(とうほう)を派遣し朱堤太守として駐屯させました。この起用は、さすがは人材鑑定の目利き、劉備の大成功になります。鄧方は、大変に無欲で気前が良い性格で、同時に勇気もあり、南中の住民に大いに施し人心を得る事に成功したのです。
西暦218年、叟(そう)族の高定(こうてい)が一度蜂起して新道県を包囲した以外は、住民反乱も無かったのです。
しかし、西暦221年に鄧方が死去、劉備は、キャリアなどを考慮して、南中出身の将軍、李恢(りかい)を平夷県に赴任させました。この人選は全く悪くないものでしたが、問題は劉備の方にあり、翌年から夷陵の戦いに突入して呉と交戦し、陸遜(りくそん)に敗れた末に、西暦223年、白帝城で崩御してしまったのです。
劉備の死は、南中の異民族を蜂起させるのに十分な大事件でした。17歳と若く、頼りない二世皇帝劉禅(りゅうぜん)、蜀を破った孫権(そんけん)の存在、交代して間もなく、人心をまとめていない将軍の李恢、その他、もろもろの情勢が蜀漢に不利に働いていきます。こうして、越巂(えつけい)郡の叟族の首領の高定が再蜂起し、太守の焦璜(しょうこう)を殺して郡全体に対して王を名乗りました。西暦223年、南中動乱はこうして勃発します。
高定、雍闓、朱褒、が南中で蜂起する
この反乱は一気に南中に広がりました、益州郡では郡の大豪族、雍闓(ようがい)が蜂起し太守の正昴(せいこう)を殺害、呉の孫権と結んだのです。孫権は、これを益州支配の好機ととらえ、雍闓を永昌太守に任命し、かつて劉備に益州を追われた劉璋(りゅうしょう)の子の劉闡(りゅうせん)を益州刺史にして、交州と益州の境界線に駐屯させ士燮(しきょう)に全面的に援護させました。
その後、蜀漢は、新任の越巂太守の龔禄(きょうろく)を派遣して安上県に駐屯させ、益州従事の常房(じょうぼう)に南中の諸郡を巡回させましたが、常房は強圧的だったようで牂柯(しょうか)郡で郡の主簿を処罰した事を切っ掛けに朱褒(しゅほう)が常房を殺して蜂起しました。
諸葛亮、鄧芝を派遣して、蜀呉同盟を攻守同盟まで強化する
この状況でも諸葛亮は冷静でした。南中を制圧する為には、まず孫呉を反乱軍から引き離さないといけないと考えただの中立同盟だった蜀呉同盟を攻守同盟まで強化しようと決意します。劉備に対抗する為に、魏との関係を強化しようとした孫権ですが、夷陵の戦いから間もなく、曹丕(そうひ)の侵攻を受けており魏に対する不信もありました。
しかし、蜀の二世皇帝の劉禅と孫権にはパイプがなく、また孔明の実務能力にも不安があった事から、魏と蜀の間をウロウロ宙ぶらりんだったのです。孔明は先手を打ち、度胸に優れた鄧芝(とうし)を呉に遣わし、劉禅の政権は安定し、心配はないという事を強調、敵は魏である事を確認して同盟を攻守同盟まで深化させる事に成功したのです。
こうして、孫権は攻守同盟を誠実に履行し南中の反乱軍への支援を打ち切りました。高定達から考えれば唖然の手の平返しですが、孫権は元々、こういう蝙蝠野郎なので信じる方がどうかしてこうして諸葛亮は一兵も使わずに反乱軍に大ダメージを与えたのです。
諸葛亮、満を持して南中へ親征を開始
こうして、諸葛亮は、西暦225年の3月に南中遠征に出発します。成都では、疫病の多い南中で孔明が伝染病に罹り死ぬ事を心配して反対意見が多く特に経済官僚の王連(おうれん)が強く反対しましたが、夷陵の敗戦や劉備時代の猛将が、続々病死した状態では、孔明が出るしか選択肢が無かったのです。最大の反対者であった王連が223年に死去した事もあり、諸葛亮は愛弟子の馬謖(ばしょく)と練り上げた南中攻略プランを胸に、馬忠(ばちゅう)、李恢を率いて出撃します。
卑水で高定を撃破し勝敗をほぼ確定
この遠征において、諸葛亮が恐れていたのは、高定がゲリラ戦に出て戦争が長期化する事でした。しかし、その懸念は杞憂に終わります、蜀軍が卑水の近くに駐屯すると、高定は一気に片をつけようと思ったのか、軍を集結してきたのです。
蜀軍は、反乱軍が集まる直前でこれを撃破、高定の妻子を捕えます。困った高定は、降伏して妻子を返してもらおうと考えますが、部下達は、まだ戦えると意気盛んで高定の命令を拒絶します。やむなく、高定は生贄を捧げて再戦を誓い、2000人で蜀軍に挑んでまた敗れ、今度は自身が捕えられ処刑されました。これより先、益州郡では、雍闓が高定の部下に殺害されていて、かわりに益州郡の支配者には、孟獲(もうかく)が立てられ漢族と夷族の人心を得ていました。
孟獲を放置しては、将来に禍根を残すと考えた諸葛亮は、さらに南下して、反乱軍と交戦し、孟獲を7回捕えて7回放つという激戦の末に孟獲を心服させています。
これが、三国志演義でお馴染み、孟獲の七縦七禽の元ネタですが、あくまでも、これは異民族を納得させる為の孟獲と孔明のお芝居であり、事実上は高定が戦死した辺りで、反乱は終わっていたという説もあります。
同じ頃、馬忠は、牂柯郡で朱褒を撃破して斬首し反乱を平定、平夷から出撃した李恢は昆明で二倍の反乱軍に包囲されますが、降伏するような素振りを見せて油断させ、隙を突いて包囲を抜けその後、反乱軍を撃破して、諸葛亮と合流しました。こうして、諸葛亮の南中遠征は、西暦226年1月に10カ月で終結します。数十年かかる事もざらな異民族反乱の平定としては異例のスピード解決でした。
三国志ライターkawausoの独り言
南中を平定すると、諸葛亮は南中を7郡に再編成します。益州郡を建寧郡とし建寧郡と益州郡の一部をもって雲南郡を新設建寧郡と牂柯郡の一部で興古(よこ)郡を新設しました。
こうして、建寧郡の太守には李恢を置き、呂凱(りょがい)を雲南郡の太守、王伉(おうこう)を永昌郡の太守とし、それ以外に現地の役人には現地人を採用し、統治は現地の自主性に任す形でゆるく統治しました。これは、蜀漢への不満を溜めない為には有効に働き、結果、西暦233年には、劉冑(りゅうちゅう)の反乱などがありましたが、益州から援軍を出す事もなく、現地の軍だけで鎮圧出来ました。南中は、蜀漢の一部として機能し、北伐の戦費を調達する、貴重な資金、物資、兵力の供給源になるのです。
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