皆さまは人中の呂布、という言葉をご存知でしょうか?それでは、錦馬超という言葉は?
錦馬超の方は三国志演義での創作ではありますが、この呂布と馬超という武将、三国志の並み居る武将たちの中でもその武力に関しては飛びぬけたものを持っていた武将たちです。今回はこの二人を並べて説明していきながら、その強さと関係まで深く見ていきたいと思います。実はこんな所でこの二人が……?な関係に、ご注目!
この記事の目次
馬超の生涯と背景 馬騰との関係とその影響、得意武器など
まずは馬超の生涯を簡単に。涼州地方を割拠していた勢力の人物であり、曹操の西征に対してこれに敵対、激しく曹操を追い詰めるも一歩足りず、敗走。
その後に上邽に逃れ、殆どの郡県を味方につけて蜂起、涼州刺史の韋康らが立てこもる冀城以外がこれに呼応したこともあり、最終的にこの韋康を殺害するも……更に後、恨み骨髄な彼の配下たちに造反され、最終的に劉備の下に身を寄せることになりました。
劉備自身には厚遇されるも、その後は漢中争奪戦時以外は特に目立った動きはなく、のち、222年に47歳でこの世を去ることになります。
その馬超の父親が馬騰、で、祖父は馬平という人物ですが、この馬平が天水郡蘭干県で県尉時代に、現地で娶った羌族の女性との間に馬騰をもうけたと記されているので、馬超にも多少ならずとも異民族の血が流れていることになります。
このためか京劇などでは馬超は美男子として描かれ、錦馬超と呼ばれている、という話が三国志演義には出てきますね。同じく京劇などでは馬超の得意な武器として長物が取り上げられていることが多いのですが、これは馬超が騎馬を用いての戦法を得意としていた所があるため、馬上で華々しく戦うイメージ、というのがやはり馬超のイメージとして根強いのではないかと思います。
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呂布の生涯とその武勇 代表的な戦績と、有名な貂蝉との運命は
それでは次に、呂布の生涯を軽く見ていきましょう。まず呂布は并州刺史の丁原に仕えていました。
丁原は呂布の勇猛さと武勇を寵愛していたようですが、後に丁原の軍勢を奪って勢力を増すことを考えた董卓にそそのかされ、呂布は丁原を殺害してしまいます。
その後に呂布は董卓の侍女と密通していたようですが……このことを話しとして膨らませたのが、三国志演義での呂布と貂蝉の話になります。悲恋であったりもする呂布と美女との話は、この密通を基にしたものなのですが……残念ながら、この関係がどうなったのかは歴史書までには記されていません。
更に董卓を裏切った呂布は袁紹、袁術、の下に身を寄せては出て行ったり、有名なとこでは曹操と戦って夏候惇を捕縛、危うい所まで曹操軍を追い詰めるも、荀彧や程昱の渾身の反抗を受けて失敗したり、劉備を頼りにしておきながら留守にすると居城を奪い取ったりと、放浪、というような日々を呂布は巡ります。
そのどれもが驚異的な呂布の強さがあってのこととも思われますが、下邳によって劉備、そして劉備が頼った曹操によってその生涯を閉じることとなるのでした。
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馬超と呂布の戦闘スタイルの比較
ここで馬超と呂布との戦闘スタイルを少し比較して考えてみますと、実は非常によく似ているのです。まずは本人自体の武勇の高さもさることながら、軍を率いての戦いっぷりは目を見張るものがあります。
まだこの時代は足元が盤石とは言い難いまでも、両名共に曹操軍をかなり追い詰めることに成功しています。
ただ比較するとこの「曹操を追い詰めた」という点では、曹操を周囲から孤立させ、許褚がいなければあと一歩……という所まで追い詰めたとされる馬超の方が恐ろしさという点では高いでしょうか。また両名共に騎馬を用いての戦いへの強さも注目したいポイントです。
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武将としてのリーダーシップ 馬超と呂布って正直どうなの?
そしてここで気になるのがリーダーシップ、つまりは組織を導く能力や指導力ですね。イメージだけだとどうにも低いようなイメージがされてしまいがちな両名ですが、決してそんなことはありません。
呂布は武勇だけでなく、敵対していた劉備と袁術を調停したり、また曹操に敗北の際は部下たちが呂布に縄を打つことができなかったともされ、兵士たちに慕われていた話もあります。
また馬超の方も、少数民族を率いて隴上で蜂起した際には、漢陽の冀県を除く全てが馬超に呼応するなど、人を扇動する、というと聞こえが悪いですが、率いていくだけの能力はしっかりと備わっていたと思われます。だからこそ二人とも割と長い間放浪できたのかもしれませんが……。
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馬超と呂布 一騎打ちにおける強さの違い
と、ちょっと気になるのが完全に「個人の強さ」であったならどちらに軍配が上がるのか?
ここで馬超と呂布が互いに一騎打ちの話でもあれば答えは簡単なのですが、残念ながらそのような話はありません。ただこの二人は面白いことに、互いに一騎打ちの記録がされている武将でもあるのです。
まず呂布の一騎打ち、これは呂布が董卓を暗殺した時のことで、董卓配下の郭汜との話が残っています。これは呂布の圧勝であり、郭汜を打ち取る寸前まで追い詰めるも、仲間の乱入もあり呂布は逃走することになりました。
対して馬超は馬頭と韓遂との対立の中で、韓遂の部下である閻行との一騎打ちが起こります。こちらは閻行の圧勝とも言え、馬超は落馬させられ打ち取る寸前までいくも、やはりこちらも味方の救援があって戦いは中断されたようです。
一騎打ちの記録だけ見ると呂布の白星とも言えますが、両方ともに味方の救援があることを考えると、一騎打ちだ!→なに!圧倒的な武力で一瞬で勝負がついてしまったぜ!というのはあくまで創作の中のイメージで、実際には見方がピンチになれば周囲から仲間が救援に来る、という情報があるのは面白いですね。
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三国時代における馬超と呂布の影響 民族背景まで踏まえると
ちょっと話しておきたいのが、馬超は羌族の血筋であることは史書に記されていますが、実は呂布も「異民族の血を引いている」とされる話があることです。ただ馬超と違い、呂布にはこの話を裏付ける資料は未だ見つかってはいません。
義父とした董卓の影響か、もしくは馬超と同じく、暫くどこにも属すことなく放浪していた時期があるという共通点でしょうか。
個人的には馬超も呂布も、そこに身を落ち着けるということがなく、結果的に周囲から追い出される……という気質が「異民族」と見られた……もしくはその「裏切り」の経歴から、どうにも当時としては他者の思考的にあまり共感を得られず「異民族」と見られているのではないか……と、想像します。ある種の民族背景と、三国志という時代の影響かとも言えるでしょう。
また後年の曹操へのヘイトの高さも考えると、「曹操を追い詰めた!」呂布や馬超が三国志演義では武勇が備わったイケメンとして描かれるのは、時代を踏まえた影響と評価、とも見られるのではないでしょうか。
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馬超の異名や読み方は?そして呂布を倒した武将との共通点とは……
さてここで馬超の異名である錦馬超について少し。これは「きんばちょう」と読み、馬超の非凡な容姿について称えた言葉で、三国志演義に出てきます。
ただ馬超の容姿についてはそれだけでなく、「虎の体に猿の腕、彪の腹に狼の腰」……と文字だけを見ると「キメラか何か……?」という描写が出てくるのも面白いポイント……まあこれは例え話で、本当にこのそのままの姿、という話ではないですが、文字を見ると何だか勘違いしてしまいそうになりますね。
そんな馬超ですが、三国志でも三国志演義でも劉備に迎え入れられてからその後の働きは精彩を欠きます。これを「落ち着いた」とみなすのか、それとも「牙をもがれた」とみなすのか、それは人によって判断が分かれる所ですが……個人的には、呂布の処刑を決めたのも劉備の言葉であったことを考えると……馬超と呂布、ある意味、劉備に「一番」縁深い武将なのかも、しれませんね。
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三国志ライター センのひとりごと
裏切りのイメージが強いのは呂布ですが、どちらかというと呂布よりもよほど馬超の方が正史での記述がお揃い用にも感じます。
ただその呂布は三国志演義では義父を二度も裏切るとんでもない男として最期を迎え、正史ではあっさり父親と弟を見捨てて「家族さえ愛さない男」とまで評価される馬超が、三国志演義では身内を残酷に曹操に奪われた復讐者に書かれたのはどんな心境なのでしょうか?
ここ忌憚なく意見を述べると「馬超が劉備陣営にいきなりきてもいまいち……そうだ!アベンジャーズだ!」みたいなノリで民間伝承から変換されていったのではないかと思うのですが、皆さんはどうでしょうか。個人の比類なき強さ、というと並ぶ武勇の馬超と呂布、しかしその後の描かれ方はどうして違いが出たのか……その辺りは、今後もちょっと考えてみたい所ですね。チャポーン。
参考:後漢書呂布伝 魏書呂布伝 蜀書馬超伝
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