ネットはおろか、テレビも新聞もない三国志の時代、人々は、一歩故郷を
離れると、そこに誰が住んでいるかもよく知らない状態でした。
そこで、各地の名士から人物情報を拾い集めて、評価する人々が出現します。
その代表的な人物が、許子将(きょ・ししょう)またの名を許劭(きょしょう)です。
この記事の目次
月旦評で取り上げられるのは、出世の近道・・
許卲子将(きょしょう・ししょう:西暦150~195年)は、
汝南(じょなん)県、与平(よへい)出身の人物です。
本来は、許卲と記録されるのですが、字の方が通りがよいのか
許子将と呼ばれる事が多いようです。
彼は、何故だか、知りませんが、当時の人物評論の大物だった
謝甄(しゃけん)に信任され、、
「君は世に並ぶものがない偉大な人物になる!!」と評価されます。
それを真に受けた許子将は、18~19歳という若輩者にも関わらず
生意気にも周囲の著名な人物の鑑定を開始します。
彼は、毎月の1日に、従弟の許靖(きょせい)と共に
人物品評会を開いていましたが、これは、当時の後漢の宮廷から、
中央の名士まで知らない人はいないという程に有名な品評会で、
許子将に評価されると出世は思いのまま、
逆にdisられると一生パッとしないという恐ろしい会です。
ヤンキーの曹操は強引に評価を頼み込む・・
宦官の孫であり、素行も悪かったヤンキーの曹操(そうそう)は、
当時の曹操の才能を高く評価していた数少ない人物である、
後漢の大尉喬玄(きょうげん)に、、
「君はまだ世に知られていないから、評論家の許子将と交わり、
人物評を受けなさい」とアドバイスを受けます。
そこで、曹操は許子将に会いにいき、
「俺はどんな人物だい?」と単刀直入に聞きます。
しかし、許子将は、曹操を良く思っていなかったので、
口を開こうとしません、いらいらした曹操は、、
「なんか言わんと、解放してやらんぞ」と脅迫します。
ビビった許子将は、仕方なく、、
「君は治世の能臣、乱世の奸雄であるな」と評価します。
曹操はこの評価を気に入り、以後、中国社会では
曹操=乱世の奸雄という
キャッチフレーズが認知されるようになります。
なんでしょう、許子将、芸人のあだ名をつけて、
ブレイクさせる有吉みたいですね。
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エリート袁紹、許子将との対立を避ける・・
袁紹(えんしょう)も、曹操ほどではないにしても不良でした。
四世三公というエリートの出身で、後には宦官皆殺しをやってのける
この怖いモノしらずの坊ちゃん袁紹ですが、彼が故郷の汝南に帰る時の事。
同じく汝南に住んでいた許子将に豪華な馬車や美麗な衣服見られて
「猿顔バブル野郎」とキャッチフレーズをつけられるのを恐れ、
一台の馬車で質素な身なりに着替えてから、帰郷したようです。
宦官は恐れない袁紹も、許子将の評価は恐れたという逸話で、
当時の許子将の勢いの大きさが分かります。
しかし、幾ら評価が怖くても、馬車を一台にし、衣服を質素にして
やり過ごすとは袁紹、気の小さい所があったんですね・・
曹操以外の人物評もある許子将
治世の能臣、乱世の奸雄の曹操のキャッチフレーズで有名な、
許子将ですが、もちろん、それ以外にも人物評はあります。
例えば、荀彧(じゅんいく)の叔父である、荀爽(じゅんそう)、
荀靖(じゅんせい)についても評価を残していて、
「この二人はどちらが優れているか?」と質問されたところ、
「二人とも玉です、荀爽は、外がくもりなく輝いていて、
荀靖は、内側に光沢を含んでいる」と言っています。
荀靖は仕官しないまま終わりましたが、一方の荀爽は、
董卓の政権下で、いやいやながら三公の一つ、司空まで昇りました。
また、後漢の皇族に連なるバリバリのプリンスである
劉曄(りゅうよう)にも、
「時の君主を補佐する才能がある」と評価します。
3名の君主に仕え、曹丕、曹叡は皇帝ですから、
許子将の評価は的中していたと言えます。
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