洛陽に壊滅的な被害を与えたのち、さっさと長安へ遷都した董卓は、新しい都でも、再び残虐な行為を繰り返します。
遷都したての長安
前漢と後漢の間に挟まれた新王朝の末期に赤眉(せきび)の乱という農民反乱が起きました。
この時に都であった長安は、すっかり焼け野原になっていて残っているのは高祖廟(こうそびょう)と官舎の一部だけだったので董卓に連れてこられた献帝は、そこを仮住まいにすることになりました。
董卓は、洛陽の民数百万人も引き連れてきて、長安へ移住させました。もちろん、兵士として使うためです。しかし、民は飢えに苦しみ、行軍中死体の山を踏みつけながら進んだといいます。
董卓、好き放題
董卓は長安に遷都すると、自らを「尚父(しょうほ)」と称しました。これは、周の武王が太公望のことを「尚父」と呼んだことにちなんでいます。
また、董卓は青いほろのついた馬車で市内を移動しました。青いほろの馬車というのは、皇太子専用の車です。人々ははじめこそ、眉をひそめていましたが、そのうち気に入らないものはかたっぱしから処刑されることに恐れをなして、ただひたすら目を合わせないようにしたといいます。董卓は、弟や親族を諸侯に任ずるばかりか、愛妾に生ませた赤ん坊までも侯に封じました。その赤ん坊は、金印と紫の印綬のおしゃぶりをくわえていたそうです。
長安にあった銅像や鐘などは、すべてつぶされて、劣悪な小銭が大量に作られました。貨幣価値はガクッと下がり、そのうち貨幣の流通も滞ります。経済もめちゃくちゃになってしまったのです。
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董卓を殺した呂布は英雄に……?
董卓が呂布に殺されたと知ると、長安市内は喜びにあふれました。人々は、なけなしの金をはたいて祝いの酒や肉を買い求め、一時的に長安の町が活性化したほどでした。
董卓暗殺の首謀者は王允(おういん)でしたが、実行したのは呂布です。呂布の功労は認められ、奮威(ふんい)将軍の称号を得、さらに侯に封じられました。
政治は王允、軍権は呂布。しかし、この体勢は長続きせず、董卓の配下だった李傕(りかく)と郭汜(かくし)に逆転され、王允は殺され、呂布は長安を追われてしまうのです。
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