王充(おうじゅう)は字を仲任(ちゅうじん)といい、後漢の初期である建武3年(西暦27年)に生まれました。天文上の日食を政治の不吉と見做したり、呪術などが流行していた迷信だらけの当時、王充は驚異的な合理主義で見聞する事象の全てを疑い、反証をなして迷信を徹底論破するという事を行いその一連の作業を論衡(ろんこう)という書物に残しています。
この記事の目次
予言などというのはインチキである
王充の生きていた時代、儒教の開祖孔子(こうし)は神格化が進んでいて、堂々とそれを批判するのはタブーでした。
その逸話の中には孔子が就寝中に、始皇帝(しこうてい)が我が家を荒らす夢を見て、やがて暴君が登場する事を予言し嘆息したというものがありました。このような予言は聖人の証だったのですが、王充は信じません。
「その書物を読んだが、そこには始皇帝などという文字は無かった、、誰かが孔子の夢に出て、家を荒らしたという事はあったかも知れないがそれが始皇帝だと孔子は断定していないのである。つまり、これは後世の人が始皇帝が登場した後に、この書物を読み、孔子の夢に登場した謎の男を始皇帝に当てはめただけなのだ。世に言う予言とは、大抵はこういうものだ」
懐かしいノストラダムスの予言も、この類だった
1999年前後に大流行した、ノストラダムスの大予言ですが、あれも、ノストラダムスが記した幻想的な詩を無理やりに歴史的な事件に当てはめて予言が当たったと言っていただけでした。そもそも、ノストラダムスは、その詩が予言などとは言っていません。王充が現在にいても、同じ事を理由にインチキを見抜いたでしょう。
雷神などいない、あれは自然現象だ
王充の生きていた時代、雷の直撃で死んでしまう人は、あまり良くないモノを食べた神罰だと言われていました。これも儒教が食事に細々とうるさいのを雷に仮託したのでしょうが、王充は、この事にも猛然と異を唱えます。
「良くないモノを食べた人が雷に直撃されて死ぬのなら、それは雷に意志があるという事になる。しかし、一方では食中毒になる人は悪いモノを食べたのに落雷を受けない、これは何故だろうか?雷が、ある人には落雷を落とし、ある人には落とさない、、これは雷がえこひいきをしているのか?」
王充は落雷現場に行き、実況見聞をしていた!
王充は若い頃、落雷で沢山の羊が死亡する事件に出くわし、その現場を見た事がありました。そこで王充は、死んだ羊の体に、すべて火傷の痕がついている事を発見していたのです。
「結論を言えば、雷には意志などありはしない、、だから、良くないモノを食べた、食べないに関係なく、人にも落ちれば家畜にも落ちるのである。雷の正体とは自然現象であり、それは熱く焼いた金属に水をかけると凄まじい音を出して爆発するようなものだ天において、そのような事が起き、たまたまその近くにいた人間や家畜が、その被害で大やけどを負い死ぬのである」
実際の落雷は静電気によって起きる事が今では証明されていて王充の言う、焼けた金属に水をかけるという説は間違いですが、彼の非凡な所は落雷という現象を科学的に考えた点でした。
幽霊など存在しない、その根拠は
また、王充は合理主義者らしく、幽霊を否定しています。
「人間に霊魂があり幽霊がいるというなら、その幽霊は、裸で出てこないとオカシイ、なぜならば、人間と違い、身につけている衣服には霊魂はないのであり、それらは化けて出られるわけがないからだ。必然的に幽霊は裸で出てこないといけなくなるが、伝聞に聞く幽霊は、皆、衣服を着ているではないか?これは理屈に合わない、とてもおかしな事である」
このように王充は、幽霊に対して否定的でした。その考えは死人が生者を呪い殺すという観念の否定にも繋がっていきます。
世が乱れるのは運命ではなく、食糧の不足である
また、王充は当時、盛んに儒者が吹聴した天体の運行の不吉が、世の中を乱しているという考えにも否定的でした。
「世の中が乱れるのは日食が起きたとか、彗星が出現したとか、そういう理由ではない。異常気象や政治の不備により、食糧がいきわたらなくなると、食う為に山賊や盗賊になる人々が増えて治安が乱れていき、そうして社会不安が増大して世が乱れるのである」
王充はこのように、都合が悪い事を全て天のせいや、運命論で済ます風潮に警鐘を鳴らしていました。
不遇の中で死んだ王充の論衡が蔡邕に発見される
王充は40年以上の歳月をかけて、論衡を充実させていきますが、かなりの確率で儒教と衝突する王充の著作は評価されず、王充が70歳余りで死去すると、論衡も忘れさられます。しかし、王充の死から半世紀以上を過ぎた、後漢の末、当時最高の学者として名高い蔡邕(さいよう)が蘇州で論衡を発見して、その合理的な思考を認め、人の話す時の虎の巻として使いました。
また、三国志演義では、孔明に罵倒されて憤死した事でもお馴染みな、王朗(おうろう)も会稽太守の時代に論衡を発見して、相手を論破するのに利用した所、急に賢くなった王朗を不審に思った仲間に問い詰められ、論衡を使ったのだと白状したという話もあります。
蔡邕と親しかった曹操は論衡を読んだ可能性が高い
三国時代を代表する合理主義者の曹操(そうそう)は、蔡邕と親しく、その娘の蔡琰(さいえん:蔡文姫)が董卓時代末期の混乱で、匈奴(きょうど)に捕まってしまったのを、多額の身代金を支払い買い戻したという逸話もあります。このような事から、曹操は蔡邕の保有していた論衡を借りて読んだ可能性が高いと思います。迷信を排し儒者が嫌いで合理的な選択を好んだ曹操の嗜好と論衡は奇妙な程に合致しているからです。王充の思想は、ついに100年近くの歳月を経てから、時の権力者曹操の思想として、中国の変革に役だった、そう考えると意義深いものがありますね。
三国志ライターkawausoの独り言
唐の時代頃までは、大著として大事にされた論衡ですが、宋代以後は、孔子や孟子に盾突く思想として嫌われ次第に忘れさられます。しかし、20世紀、西洋合理主義が中国にも入ると、論衡は合理的な学問として再評価され、再び研究されるようになり、1970年代の文化大革命時代には孔子や孟子に批判的な内容が批林批孔運動に利用できるとされ、大いに活用されたりもしました。こうして、王充の科学する心や、物事を鵜呑みにしない真実を追求する精神は、2000年の歳月を越えて、今に伝わったのです。
関連記事:まったく安心できない三国志の全裸男、禰衡(でいこう)
関連記事:ギャップに驚き!禰衡だけでは無かった!Mr.天然、曹植の裸踊り