※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。
三国志の時代は戦乱の時代であり、裏切りは日常茶飯事であり、
なおかつ、それが批難されない時代でした。
そのような中で、藏覇(ぞうは)は決して他人に媚びず、
同時に通すべき仁義は身を挺しても通す立派な人物でした。
この記事の目次
冤罪の父を救う為に十数名の食客と100名の護送兵に喧嘩を売る
藏覇の父は藏戒(ぞうかい)と言い兗州泰山郡、華県の役人で、
不正を許さない清廉潔白な人物でした。
ある時、太守が不正をしている事を知った藏戒はこれを諫言しますが、
大守は逆上し、藏戒を捕えて100名の役人で護送しようとします。
それを聞いた18歳の藏覇は食客十数名を率いて、護送車に襲い掛かり、
見事に父を救出して東海郡に亡命しました。
この快挙で藏覇は、一躍天下の人に名が知られます。
陶謙に従い、黄巾賊を退治し、以後独立勢力になる
その後、藏覇は陶謙(とうけん)に従い、徐州の黄巾賊を討伐しています。
ある程度、黄巾賊を退けると、開陽という城市を拠点にし、
孫観(そんかん)、呉敦(ごとん)、尹礼(いんれい)という有能な武将を
配下にして半独立状態になります。
この頃、陶謙は奢りが出て乱暴になり、曹操(そうそう)に攻め込まれて弱体化します。
そのような状況を見越して、藏覇は世の中の様子を見ていたのでしょう。
藏覇の仇名は、奴寇(どこう)で粘り強い悪党の意味でした、彼はその通りに、
ある時は積極果断、ある時は貝になり敵を苦しめる存在になります。
呂布に攻め込まれるが撃退、その後和睦する・・
197年、藏覇は勢力を拡大し琅邪(ろうや)国莒(きょ)県を支配していた
独立勢力の蕭建(しょうけん)を撃破して一帯を支配下に置きました。
しかし、蕭建は天下無双の呂布(りょふ)と同盟関係にあり面子を潰された
呂布は藏覇を撃破しようとします。
藏覇の方も、呂布を敵にするのはマズイと思っていましたが、
どうすればいいか、考えている間に呂布が攻め込んできたのです。
ところが、藏覇は慌てず騒がず冷静に城の防備を固め呂布を寄せ付けませんでした。
結局、呂布は兵を引き、藏覇と改めて同盟を結ぶ事になります。
まさに奴寇の本領を発揮したのが呂布との戦いでした。
藏覇、呂布の窮地に共同して戦うも敗北・・
藏覇は、日和見する武将ではなく、盟友の呂布が曹操に攻め込まれた時には、
見捨てる事なく援軍を出して戦いました。
しかし、呂布は曹操の水攻めに耐えかねて降伏、藏覇は追手を逃れて逃走してしまいます。
曹操は藏覇を追い、これを捕えます、曹操は当初、
「藏覇が命乞いでもするのではないか?」と軽く見ていましたが
藏覇は少しも媚びず堂々とし、仁義を重んじる態度を見せたので
気に入り、罪を許して自分に仕えるように言います。
こうして、藏覇は逃げていた、孫観、孫康(そんこう)、呉敦、尹礼を
呼び寄せて曹操に仕える事にしました。
曹操は、降将の藏覇を信じ、青州、徐州の統治を任せて口出しせず
太っ腹な所を見せたので藏覇も曹操に忠誠を誓うようになります。
仁義の武将、藏覇、徐翕・毛暉の為に劉備に弁明を頼む
同じ頃、陳宮と呂布の計画に乗り兗州で反乱を起こした、かつての曹操の配下、
徐翕(じょきゅう)と毛暉(もうき)が藏覇に降伏しました。
藏覇がその事を曹操に告げると曹操は、当時、お気に入りだった劉備(りゅうび)を
藏覇の下に派遣して、二人の首を貰い受けるように指示します。
劉備が藏覇に二人の首を斬るように申しつけると藏覇は言いました。
「お聞きください、劉備殿、この藏覇が自立して戦えるのは、
頼ってきた人間は決して見捨てないからです。
私は、曹操様の恩徳に預かり、御命令とあれば二人を斬るのは義務、
しかし、主君に対し王者の徳について述べる自由は許されておると信じます。
何卒、劉備殿には、この二人の為に曹操様に弁明して頂きたい」
曹操は劉備からこれを聞いて嘆息しました。
陳宮と呂布が兗州で謀反した時、反乱に呼応しなかったのは僅か二城に過ぎず、
徐翕と毛暉は保身の為に裏切らざるを得ない事情があったのです。
曹操はそれを思い起こし、藏覇の仁義を尊び徐翕と毛暉の罪を赦すばかりか
さらに大守に任じたと言います。
袁紹軍を度々攻撃し、曹操をアシスト
官渡の戦いが始まると、藏覇は精鋭を率いて、度々、袁紹(えんしょう)の領内を攻撃、
曹操をアシストし、205年、袁譚(えんたん)が鄴(ぎょう)を放棄すると
真っ先に自身の家族を鄴城に送りこんで曹操に感謝されました。
当時の武将は人質として家族を自軍の本拠地に住まわせる習慣があり、
藏覇は変わらぬ忠誠を形で示したのです。
さらに、曹操が五回攻めても倒せなかった厄介な敵の昌豨(しょうき)を
于禁(うきん)と共に攻めて滅ぼし、夏侯淵(かこうえん)と共に、
黄巾賊の生き残り徐和(じょわ)も撃破します。
孫権キラーとして、一人で呉軍を引き受ける藏覇
藏覇はその後、呉征伐の先鋒となり活躍します。
西暦209年、赤壁の敗戦の隙を突き、元は曹操に服属していた陳蘭(ちんらん)が
反乱を起こすと張遼(ちょうりょう)と共にこの討伐にあたります。
孫権は、ここを勝機と考え、陳蘭を救援しよう援軍を送りますが、
戦略眼に長けた臧覇は、張遼に陳蘭を攻撃させつつ自身は皖(かん)城に入城。
迎撃にやって来た孫権軍の古参、韓当(かんとう)や逢龍(ほうりゅう)を
夾石(きょうせき)で撃破し引き返して舒(じょ)県に伏兵し様子を窺います。
孫権は諦めず、自ら数万人を指揮して船に乗せ舒口に駐屯させ
陳蘭を救援しようとしますが臧覇が舒にいたので慌てて退却します。
臧覇はチャンスを逃さず、退却する孫権軍を前後左右から挟み討ちにしたので
孫権の軍勢は船に戻れずに溺死者が続出し攻撃は失敗します。
こうして、孫権はたった一人の藏覇に歯が立たず、陳蘭は張遼に斬られたのです。
217年の濡須口の戦いでは、藏覇は、張遼と共に先鋒を勤めますが
長雨で水位があがり魏の本隊は退却するという事態になり、呉の呂蒙(りょもう)は
これに乗じて攻め上ってきました。
張遼は、一時退却を考えますが、藏覇は、断固として指示があるまで退却せず、
結果、魏の先鋒は敗れますが総崩れになる事を免れます。
曹操は藏覇の沈着冷静を評価し、引き続き藏覇を夏侯惇(かこうとん)の指揮下に
配置して帰還しています。
こんな立派な悪党は藏覇(ぞうは)ぐらい!鬼神呂布に勝ち曹操を感激させた漢の生涯
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