チートな英雄、光武帝(こうぶてい)、数多の強敵を打倒し漢の天下を回復した彼ですが、
この光武帝を絶対絶命状態に追いつめた人物こそ、元占い師の王郎(おうろう)です。
嘘に嘘を塗り固め、自身を漢のプリンスと詐称した王郎の人生を解説しましょう。
この記事の目次
占い師の人生を変えた、ある事件・・
王郎(おうろう?~24年)は本名を王昌(おうしょう)といい
冀(き)州趙(ちょう)国邯鄲(かんたん)県の人です。
ただし、多くの史書は、彼を王郎としているので、はじさんでも王郎で統一します。
王郎は元々占い師であり、天文や暦に通じていました。
つまり、王郎は文字を読む事が出来る階級に所属していたという事でしょう。
王郎は、自らの占いにより、北には天子の気があると考えるようになり、
自分こそがその天子ではないかと密かに野心を持ちます。
そんな折、前漢が王莽(おうもう)の纂奪で倒れます、劉氏の反乱が起きて
前漢の成帝の遺児を名乗る、劉子輿(りゅう・しよ)という人物も長安で誅殺されました。
王郎(これはいい、劉子與は逃げ延びた事にして、俺が成り済まそう)
成帝は、元々、遊び人で即位してからも、度々、街に出ては浮名を流す
困った人物で、隠し子も多くいると思われていました。
王郎はそこを利用し、劉子與を詐称する事にしたのです。
王郎、劉林に自身が劉子輿だと詐称する・・
邯鄲の市で占い師をしていた王郎は、市の顔役で任侠の徒である
劉林(りゅうりん)とも顔なじみでした。
そこで、王郎は、ここだけの話と前置きして劉林に実は自分が、
前漢成帝の遺児である劉子輿だと告げます。
「私は王位継承の災いをさけて、巴蜀の地に逃れ、占術を学んだが、
趙燕の土地に天運が高まっているのを感じてやってきた」
この頃、邯鄲では、河南の赤眉(せきび)軍が黄河を渡り、大挙北上するという
伝聞が飛び交い、誰か中心になる人物を立てて守りを固めないと
危ないという危機意識が溢れていました。
普通は「なにをバカな!」で終わりですが、王郎には、
やはり独特のカリスマ性があり、それに赤眉への危機感もあったので、
劉林は王郎の嘘を信じてしまいます。
そして、趙の豪族である李育(りいく)と張参(ちょうさん)にも話して
王郎を天子として擁立する事で話がまとまります。
後一歩という所で、劉秀が行大司馬としてやってくる
ところが、西暦23年10月、邯鄲に更始(こうし)帝、
劉玄(りゅうげん)の命を受けて賊征伐にやってきた劉秀(りゅうしゅう)、
後の光武帝が進駐してきました。
劉林は、劉秀の容貌を見て、ただならぬ威厳を感じて、
「この人物こそが次の天子かも知れぬ」と考えます。
王郎にしてみれば、とんだ計算違いです。
こいつさえ来なければ、うまうまと皇帝になれたものをと
劉秀を恨みますが、今はどうにも出来ません。
しかし、劉秀は黄河を決壊させて、赤眉を押しつぶしましょうと
進言する劉林に対して明確な回答を避け、北へ向かいます。
劉林は、劉秀に失望し、ここで王郎を皇帝に擁立する事を決意します。
劉林は李育と張参にも声をかけ、赤眉軍が邯鄲に攻めてくると、
民衆の不安を煽り、王郎を劉子輿として300の車騎に伴わせ
邯鄲に入城させ、かつての趙王の宮殿で即位させます。
ここで、王郎は偽皇帝、劉子輿にまんまと成りおおせるのです。
王郎、劉秀の首に懸賞金を懸けて命を狙う・・
王郎は、劉林を丞相、李育を大司馬、張参を大将軍に任命します。
さらに軍を派遣して冀州、幽州をまたたくまに制圧していきます。
また、河北の民衆が依然として漢を思慕していることを利用し
漢に忠誠を尽くして死んだ翟義(てきぎ)が未だ死んでいないことを
詔(みことのり)で強調するなどして、宣伝を続け声望を得ます。
かつて、秦末の反乱の時、陳勝(ちんしょう)や呉広(ごこう)が、
秦に最期まで抵抗した楚の項燕(こうえん)大将軍や始皇帝の長子で
評判が良かった扶蘇(ふそ)が自軍に加わっていると
デマを撒いて仲間を増やしたテクニックに似ています。
これにより、周辺の豪族は、趙国以北、遼東以西は王郎の手に落ちます。
天子となった王郎は、劉秀が戻ってくる事を警戒し、これを亡き者にしようと考え
劉秀の首級に十万戸の懸賞を設定して手配書をばら撒きました。
破格の懸賞金は、各地の豪族や山賊の欲望の対象になり劉秀は、
命を狙われる羽目になります、劉秀の生涯、最大のピンチでした。
極貧の劉秀の逆転劇が始まる・・
十万戸の食邑に各地の豪族は飛び付きました。
賞金首になった劉秀は、馮異(ふうい)や王覇(おうは)、鄧禹(とうう)
のような僅かな兵力を連れて、昼は襲撃を警戒して洞窟に隠れ、
夜中は明け方まで強行軍を続けるという悲惨な撤退を開始します。
折しも、季節は冬、激しい寒さで味方は次々と倒れていきます。
劉秀は、飢えに苦しむと大胆にも王郎から派遣された将軍のような顔をし
役人しか使えない伝舎で食事を取るなど、危険な綱渡りをします。
ある時には、食糧が尽き、馮異が苦労して豆や麦を集めてきて、
鄧禹が薪を探してきて火を起こし、豆粥や麦飯のような貧しい食事を摂る事もありました。
劉秀は、この二人の善意を生涯忘れなかったそうです。
こうして劉秀は孤独な撤退戦を継続し、劉秀を支持して王郎を拒否した
信都郡の任光(じんこう)の所まで退却しようやく拠点を得ます。
真定王、劉楊を味方につけて形成は逆転する
劉秀は信都郡を堅く守りながら、各地に活発に配下を派遣して寝返り工作を開始。
特に王郎の配下で十万の兵力を持つ真定王 劉楊(りゅうよう)に目をつけ、
劉楊の妹が豪族の郭昌(かくしょう)に嫁いで産んだ娘、すなわち劉楊の姪の
郭聖通(かくせいつう)と劉秀が縁組する事で、劉楊を更始帝陣営に
抱き込む事に成功します。
こうして王郎と対峙しながら、劉秀は、精鋭の烏桓突騎(うかんとっき)を擁する
漁陽(ぎょよう)郡、そして上谷(じょうこく)郡を王郎から離反させる事に成功し
漁陽からは、呉漢(ごかん)、蓋延(がいえん)、王梁(おうりょう)、上谷からは、
景丹(けいたん)、寇恂(こうじゅん)、耿弇(こうえん)らが劉秀の陣営に入ります。
これらの武将は全て、後に雲台二十八将に列せられる名将ばかりで、
王郎討伐ばかりか、天下統一にも大きく貢献する事になります。
王郎は劉秀の軍勢に逆に包囲される・・
一方で、戦線を立てなおした劉秀の軍勢に王郎軍は敗戦を繰り返します。
西暦24年、4月には劉秀の軍勢は、邯鄲を包囲しました。
諦めが悪い王郎は、「一万戸の領主にしてくれるなら降伏する」と打診。
しかし、劉秀は「バカ言え、命を助けてやるだけでも有り難いと思え」と返信します。
王郎は、徹底抗戦をしますが、五月には、邯鄲から内応者が出て、城門は開き、
王郎は一騎で逃亡しましたが、逃走中に病気になり死んだようです。
後漢書では、劉秀配下の王覇に斬られたとも言われます。
後漢演義ライターkawausoの独り言
王郎は、白を黒といいくるめる弁舌とカリスマ性、そして、時勢を読む
才能を駆使して、どこの馬の骨とも分らない身分から、一躍、漢のプリンス
劉子輿に成りおおせ、一時は河北全域を支配します。
赤眉軍が攻めてくるという噂も、もしかしたら王郎が撒いたデマかも知れません。
しかし、人を操る事は出来ても長期的な展望が無い王郎は、
次第に劉秀に巻き返され最期には城を逃れて病死する事になります。
占い師として優秀だった王郎ですが、劉秀の才能と自分の限界を知る事は出来ず
戦場の露と消えてしまったのでした。
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