現代ではブラック企業や過労死などの問題が取り上げられていますが、
まさに郭嘉(かくか)の死はそれに該当すると思います。
過酷な労働の末に郭嘉は病気になって亡くなったのです。
郭嘉を早死にさせない方法は働かせすぎないことにつきます。
しかし郭嘉はその生涯をかけてでも為しえたい目標がありました。
曹操(そうそう)の河北平定です。
巨大な敵・袁紹を逆転し、広大な領土を手中に収めるというまさに夢物語です。
郭嘉を河北平定に同伴しなければ郭嘉は長生きしたかもしれませんが、
その代わりに曹操はさらに多くの時間と犠牲を支払うことになったでしょう。
今回は郭嘉の過労死の原因を探ります。
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曹操の河北平定のイメージ
西暦200年(建安五年)10月、
官渡の戦いで曹操は最大のライバルであった河北の袁紹(えんしょう)を破ります。
袁紹は西暦202年5月に病死しました。
曹操の河北平定はここから始まったといっても過言ではありません。
袁紹の息子たちを滅ぼす西暦207年まで約七年間の月日を曹操は費やすことになります。
官渡の戦い以降、曹操は優勢に河北平定を進めていきますが、
それでもかなりの難事業であったことは間違いありません。
この苦難の歴史が「三国志演義」では120回の話のなかで、実に3回分でしか触れられていません。
そのため曹操は比較的楽に河北を平定したというイメージが後世に伝わっていくことになりました。
異民族・烏丸との戦い
それ以前に袁紹は公孫瓚(こうそんさん)を倒し、
河北を制したわけですが、その際に北の異民族も手なずけています。
それが匈奴より独立した部族である「烏丸」です。
烏丸は袁紹が死んだ後も袁家との友好関係を継続し、曹操の河北平定を妨害します。
このときの烏丸の本拠地は、万里の長城よりもはるか北方にあたる柳城でした。
曹操は冀州河間国易県に烏丸征討の本陣を置きましたが、
ここから柳城までは凄まじい長距離です。
地図上でも直線距離にして約600㎞。
蜀の北伐の際の漢中から魏領・長安までの距離のざっと2倍です。
柳城に到達するためには、街道を通っても千里。要所に敵陣があるため、
これをいちいち破って進んでいくことを考えると気の遠くなるような年月がかかります。
迂回して間道を抜けるためには渓越え、山越えのさらなる難行軍となります。
絶対的なアウェー戦で地理に不慣れな点だけでなく、
兵站のことが懸念されて多くの臣がこの征討に反対したといわれています。
軽騎兵による長距離移動策
烏丸征討の反対が圧倒的ななかで、軍祭酒の郭嘉は侵攻を進言します。
それは、軽騎兵だけを徹底的に進軍させる速度重視の電光石火の策でした。
歩兵や兵站を無視した革命的な発想です。
これにより防御の布陣が間に合わなかった
袁家・烏丸の同盟軍は戦線を大きく後退せざるをえなくなります。
西暦207年の夏の頃です。
しかしこれは逆にいうと、
袁家・烏丸同盟軍は曹操軍を自陣深くに敵を引きずり込んだともいえるのです。
曹操は打つ手を誤ると壊滅的なダメージを受けるおそれもありました。
本当の戦いはここからだったのです。
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雨季の進軍
長雨で進軍が難しくなると、曹操は雨季が終わるまで進軍せず、後退することを明言します。
烏丸はその言葉を信じて布陣を緩めますが、
実は曹操は地元の地理に詳しい人物を先導役につけて間道を進んでいくのです。
もちろん侵攻の言い出しっぺである郭嘉も同行します。
この進軍は曹操の生涯のなかで最も過酷な進軍であったといわれています。
烏丸は完全に油断しており、曹操軍の接近にもギリギリまで気付けずに大敗します。
西暦207年の秋、曹操は柳城を落とすことになりました。
南の孫権や劉表らは曹操が河北を平定するのに
もっと時間がかかるであろうと予測していたでしょうから、
この戦況に驚いたことだろうと思います。
遼東の平定
烏丸は壊滅、袁紹の息子たちはさらに奥地の遼東まで逃げます。
そこには公孫康(こうそんこう)がいました。
曹操の臣下はここまできたら公孫康も討って、
袁家を滅亡させることを進言しましたが、郭嘉は逆に本陣の撤退を提案します。
公孫康の降伏を読み、冬が来る前に撤退しないと大変なことになることを郭嘉は予測していました。
曹操はその進言を聞いて本陣を冀州に戻します。
郭嘉の言葉通りに公孫康は袁紹の息子たちの首を斬って降伏してきたのです。
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河北平定の代償
早期に決着つけることのできた曹操でしたが、その代償は大きなものがありました。
帰還の時期が冬であったために行軍には厳しく二百里に渡って
飲み水に欠く事態や食料が足りなくなって数千の馬を食べることで飢えをしのいだといいます。
また風土病も流行し、多くの将兵が苦しみました。
しかし柳城に滞在していればもっと多くの将兵が病気になっていたでしょうし、
深刻な兵糧不足に陥っていたでしょう。
結果、南への備えが疎かになっていたかもしれず、孫権や劉表の侵攻を招いたかもしれません。
曹操は最低限の犠牲と時間で河北を平定したことになります。
しかし、強行軍に同伴していた郭嘉もまた病魔に侵され、帰還後に亡くなります。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
郭嘉の献策、強行軍がなければ河北の平定にさらに多くの年月と犠牲を払っていたことでしょう。
郭嘉がいても七年を要したのです。
郭嘉がいなければ倍以上の月日が必要になったかもしれません。
もしかするとその間に袁家は息を吹き返し、
曹操は残りの半生すべてを捧げても河北は平定しきれなかったかもしれないのです。
郭嘉の命と引き換えに曹操は天下を治める機会を早々に得ることができたわけです。
郭嘉を早死にさせない方法はあれど、
河北を早期に平定するには郭嘉の粉骨砕身の働きが必要だったといえます。
当の本人である郭嘉がどちらを選ぶかはいうまでもないことではないでしょうか。
「軍師連盟」の主役である司馬懿(しばい)に匹敵する軍師・郭嘉。
なぜ彼の死を曹操が嘆き悲しんだのか、その存在の重さは曹操がよくわかっていたのだと思います。
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