諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)と仲が悪かったが為に、
三国志演義では傲岸不遜な悪役とされる魏延(ぎえん)。
しかし、実際の魏延は、傲岸不遜ではありましたが、天才型の名将であり、
劉備(りゅうび)のような大将がいれば如何なく才能を発揮できた英雄でした。
彼の不幸は、劉備のような大将と年が離れすぎていた事でしょう。
さて、そんな魏延ですが、隠された才能がありました、それが築城技術です。
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魏延は、漢中を守備していた頃、地形を利用した要塞を築いていた
魏延は、劉備の入蜀に従い手柄を立てて、漢中の守備を命じられました。
その頃、漢中は度々、戦場になっていましたが、漢中自体は平地であり、
入りこまれると守るのが難しい地形でした。
漢中の前面には地図の通り、険しい秦嶺山脈が聳えていますが、
雨が削り取った自然の道が険しいながら繋がっており、
時間はかかりますが、漢中に入るのは不可能ではありませんでした。
そこで、魏延は、この秦嶺山脈に目をつけ、ダミーの間道を掘削したり、
道の途中に壁を築いたり、細い道へ誘導したりして、
まるで迷路のような天然の要塞を造り出していたのです。
興勢の役で実証された魏延の防衛ライン
名築城家だった魏延ですが、自らが築いた漢中要塞の威力を知る事はありませんでした。
五丈原で孔明が没した後、蜀の主導権争いに敗れ馬岱(ばたい)に斬られたからです。
しかし、魏延の非業の死から10年後の西暦244年、魏の曹爽(そうそう)が、
落ちてきた国内の求心力を取り戻そうとして蜀征伐の軍を出してきます。
これが世に言う興勢(こうせい)の役ですが、6万の曹爽軍に対して、
蜀の漢中の備えは3万しかありませんでした。
蜀では大慌てになり、前線の漢中城を放棄して、関城と楽城を固守すべしと
いう意見が大勢を占めますが、これに王平(おうへい)が猛反対しました。
「一時的にでも漢中城を敵に明け渡してしまい、
万一、涪(ふ)城からの援軍が間に合わないなら、関城も楽城も落ちてしまいます。
そうなれば漢中は平地で容易に突破されてしまいます、
この戦略には絶対に賛成できません」
王平には、劉敏(りゅうびん)も漢中の穀物の刈り入れが終わっておらず、
そのまま陥落させては魏軍を勢いづかせるとして同調しました。
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王平は、魏延の防衛ラインを活用し曹爽を撃破した
そこで、王平が出してきたのが、魏延の造り出した防衛ラインの利用でした。
王平は、魏軍の進軍経路である駱谷(こくや)道の麓の興勢(こうせい)山へ
劉敏と杜祺(とき)を派遣、陣地を固く守り援軍を待つ作戦を取ります。
王平は劉敏に命じ、劣勢の蜀軍を大軍だと魏軍に錯覚させるために
百里余りにわたって多数の軍旗を立てさせて魏軍を惑わせます。
さらに、もし魏の別動隊が黄金谷を通ってきた場合に備えて、
王平自身が兵を分けて迎撃できるように臨機応変に備えました。
それを受けて、車騎将軍鄧芝(とうし)と鎮南大将軍馬忠(ばちゅう)も、
漢中城の東、南門外の要地それぞれ出撃し魏軍を迎え撃ちます。
これは、魏延のプラン通り、地形を利用して、兵を神出鬼没にして、
各地で撃破していく方法でした。
王平の目論見は的中、魏軍は、魏延が造り出した秦嶺山脈の迷路に
進路を阻まれまったく進む事が出来なくなり、こうしている間に、
涪城と成都から援軍が到着し、魏軍は退却、王平は攻勢に転じて
数万の魏兵を斬り多数の物資を手に入れたのです。
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魏延の防衛ライン、姜維に破壊される
こうして、魏延の生みだした防衛ラインは蜀の危機を救います。
しかし、そんな防衛ラインも解体の憂き目を見る事になるのです。
それは西暦258年、大将軍になっていた姜維(きょうい)によってでした。
度々の大敗で兵を失っていた姜維は漢中の防衛ラインに配置されていた
蜀兵を北伐軍に吸収してしまいました。
そして、秦嶺山脈に張り巡らした魏延の防衛ラインを放棄して、
防衛は敵が来てから、兵を漢中手前の関城・楽城に集めて
行えばいいとしました。
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劉禅、姜維の援軍要請を占いで黙殺、楽城・関城あっさり陥落
西暦262年、魏の鐘会(しょうかい)を総大将とする魏軍18万が蜀へ侵攻します。
姜維はすぐに援軍を成都に要請しますが、劉禅(りゅうぜん)は、
占い大好きな宦官、黄皓(こうこく)が
「魏軍は攻めてこないと占い師は言っております!」というのを
真に受けて、援軍を送りませんでした。
そして、いよいよ、その占いがクズだったという事を知った時には
すでに魏軍は、楽城、関城を陥落させていたのです。
まあ、一番悪いのは、いい年こいて夢見る夢子ちゃんだった劉禅ですが、
魏延の防衛ラインを放棄した結果、姜維は魏軍を漢中に入れてしまう痛恨事を招きます。
こうして、魏延の遺産を失った蜀は滅亡の道を進むのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
そもそも、鄧乂(とうがい)の剣閣スルーからの綿竹関攻撃も、
漢中に入れなければ不可能なわけで、魏延の防衛ラインを
破壊してしまったのは、蜀にとっては痛恨事でした。
魏軍は大軍とはいえ、剣閣では阻まれているわけですから、
魏延の防衛ラインが生きていれば、鐘会を長期間漢中の手前で足止めさせ、
食糧不足の不安から、一度退却するという事になったかも知れません。
まあ、退却した所で、また来る事は間違いないので、
蜀に突破口が出来るわけではありませんが・・
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