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諸葛均(しょかつきん)とはどんな人?諸葛孔明の弟に迫る!

2015年4月14日


 

三顧の礼 ゆるキャラ 孔明

三顧の礼によって劉備に仕えることになった諸葛亮孔明は三兄弟でした。長男の諸葛謹(しょかつきん)字は子瑜、呉の孫家に仕えた武将です。

舌戦で煽るのがうまい諸葛亮孔明

 

次男の諸葛亮(しょかつりょう)字は孔明、言わずもがな蜀の劉備のもとで軍師として大活躍し、『三国志演義』後半の主人公です。ですが三男の諸葛均(しょかつきん)については、字さえも伝わっていません。諸葛均の活躍については全力でスルーされているのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三顧の礼で劉備らの応対役

諸葛均 孔明の弟 ゆるキャラ

 

劉備らが諸葛孔明を自軍の軍師に迎えるべく草盧へ赴いた際、応対に登場したのが諸葛均(しょかつきん)です。

 

劉備

 

この時初対面の劉備に諸葛均は「孔明先生ですか」と間違えられます。

 

劉備に無視されてふくれ顔の諸葛均

 

二度目、三度目の訪問に対して、兄の留守を告げる諸葛均に、張飛などは面と向かってイライラをぶつけます。諸葛均は困った顔ですみません……としょげるだけ。これでは孔明のクレーム対応係りですね。三度目に至っては、「兄は昼寝をしています」と伝える正直者。なんだか憎めません。話は脱線しますが、孔明の昼寝について補足します。

 

日本と中国の文化の違い「昼寝」について

孔明
孔明は当時晴耕雨読の生活を送っていましたが、昼間っから大の大人がゴロゴロと昼寝というとぐうたらなイメージが浮かんでしまいます。ですがこの辺りには少し日本と中国の文化の違いがあるような気がします。日本では小中学校のときから、昼食の時間は短く「急げ」と言われて育ちますし社会に出ても仕事が忙しく、なかなか昼食の時間が取れない方もたくさんいらっしゃることでしょう。

 

忙しい日本人、それじゃ中国人は?

三国志 英雄たちの宴

ですが中国では、昼食後のゆったり時間がとても大切にされています。大学などのお昼休み時間はガッツリ二時間はありますし、昼過ぎにはオフィスや店のカウンター内などで昼寝をしている方がたくさんいます。

 

また、ツアー旅行などに参加すると、日本人には「昼時間が長すぎる! その分観光したいわ!」と思うほどしっかりとお昼休憩のタイムスケジュールが組まれています。

 

……もちろんその分、朝は早朝から働き、夜も遅くまで働いているということを忘れてはなりませんが。すみません、だいぶ脱線してしまいました。

 

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兄より弟への言葉

孔明 劉備の剣とハンコ

 

さて、孔明は劉備について行くことになりました。草盧を出るとき、弟の諸葛均にこんな話をして言い聞かせます。

「おまえはここで農耕を続けて、手柄を立てて戻ってくる僕を待っていなさい」

 

えっ。

 

僕の生活が落ち着いたら呼び寄せるから、ではないのですね。

 

諸葛謹と諸葛亮の二人の会話

空城も計 孔明

 

のちに諸葛謹と諸葛亮の二人が膝を突き合わせて語り合うシーンがあります。

諸葛謹:「おまえ最近はどうなんだ?」

諸葛亮:「僕の方はぼちぼちだよ」

そんな兄弟の近況を伝えあう会話の中にも、弟均の話は出てきません。

 

実際の諸葛均はどうしてたの?

劉備読書

正史では、諸葛均は次男の孔明と共に劉備に仕え、長水校尉に出世しましたと書かれていますが、妻子に関する記述などはありません。校尉というのは将軍が治める「部」の長官で、高位の役職です。それでもほとんど記述がないところを見ると、この諸葛均、兄孔明から言われたとおり、田舎で農作業をしている方が性に合っていた純朴な人物だったのかもしれません。

 

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東方明珠

東方明珠

中国は上海の雰囲気が好きなので、テレビ塔の「トンファンミンジュ」を名乗っています。もともと『水滸伝』の大ファンで、『三国志』に興味を持ったのは、アーケードゲーム「三国志大戦」がきっかけです。当時はゲームセンターに通いつめました!まだまだ中国史について勉強中ですが、精いっぱい面白いことを探してお伝えしたいと思っています。

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