後漢最期の皇帝、献帝(けんてい)は生涯に二度大きな移動を経験しています。
一度目は西暦190年、董卓(とうたく)に連れられて洛陽から長安に移動した少年時代。
二度目は、196年、李傕(りかく)・郭汜(かくし)の暴政から逃れて
洛陽(らくよう)を目指した青年時代です。
特に二度目は、一度は洛陽への移動に納得した李傕・郭汜が変心して軍勢を率いて
連れ戻そうとして戦いになり部下を大勢失う大変な移動だったのです。
そして、その間の生活は、とても皇帝とは思えない悲惨なものでした。
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この記事の目次
黄河を渡る献帝が目にした凄まじい地獄絵図
196年、曹陽の戦いで李傕、郭汜、張済の攻撃により献帝の一団は、
壊滅的な被害を受けます、献帝は董承(とうしょう)の援護で何とか黄河を渡りますが、
舟が少なく宮廷の公卿と百官は置き去りにされました。
死にたくない百官は舟に追いすがりますが、舟の転覆を恐れた董承は、
矛を奮って百官の指を叩き切り、舟から引き剥がしました。
その為に、舟底には切り捨てられた指が掬い取れる程に溜まったそうです。
岸には、百官と後宮の宮女が残されて泣き叫び、恨み事を述べます。
そして、殺到した李傕と郭汜の軍により宮女は拉致され、百官はその場で
皆殺しにされました。
献帝はその地獄絵図を見ていたのです、彼は当時15歳、今なら高校一年生位です。
どんな思いで殺される部下達を見ていたのでしょう・・
献帝は補給部隊も失い、空腹と疲れに耐えながら、妃と宮女の二人に付き添われ
徒歩で進み太陽という土地に入り、民家の世話になりました。
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安邑に入って、一応朝廷の姿は整うが
途方に暮れる献帝の元に、楊奉(ようほう)と韓暹(かんせい)が追いつき、
徒歩の献帝に牛車を勧め安邑(あんゆう)という都市に移動します。
付き従うのは、大尉の楊彪(ようひょう)、太僕の韓融(かんゆう)など
十数名であったようです。
安邑に仮の宮殿を定めると、配下をそれぞれの官職に任命します。
韓暹を征東将軍、胡才(こさい)を征西将軍、李楽(りらく)を征北将軍に任命して
守りを固め董承と楊奉に政治を任せる事にしました。
韓融を弘農に派遣して、李傕・郭汜と和睦させると、一度は掠奪した宮女と、
天子の馬車、生き残った公卿百官、それに数台の車を返還したそうです。
とにかく、これで一応、朝廷の体裁が整った事になります。
蝗害による大飢饉で深刻な食糧不足に
しかし、落ちついたと思ったのも束の間、安邑に蝗(いなご)の被害が襲いかかります。
さらに旱魃(かんばつ)がやってきて、穀物が獲れず飢饉が発生しました。
同じ頃、兗州の支配を争った曹操(そうそう)と呂布(りょふ)も飢饉で
一時停戦していた位なのでその被害の深刻さが分ります。
献帝のお供は、野菜や棗(なつめ)をようやく口に入れる程度ですし、
折角、任命した重臣は、仲が悪く、全く上下の統制が取れない状況に陥ります。
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粗末なボロ屋でプライバシーの無い政務を執る献帝
魏書によれば、安邑は、寂しい田舎だったようで、土塀をめぐらした屋敷はなく
献帝は、やむなく、柴を編んで造った籬(まがき)の塀がある家に寝起きしました。
屋敷の扉は常に開けられていて、人の出入りは自由だったようです。
献帝が公卿を集めて会議を開くと、兵士達は、籬の上に乗って様子を見物
お互いに押し合いへしあいでやかましく騒いでいました。
諸将は、節度がなく、気に入らないと尚書を鞭で殴り殺すなど、
横暴きままであり、天子の宮殿なのに召使の女を伝言によこしたりし、
時間に関係なくやってきては、侍中に大声で帝に会わせろと言い、
酒や肉を持ちこんでは「天子と飲み食いしたい」と無理難題を言いだし、
言う通りにしないと侍中を怒鳴りつけ、許可が出なくても
強引に入りこんで飲食するという有様でした。
当時の献帝は惨めな程にプライバシーがない状態に置かれたのです。
おいこら天子、官位くれ、図々しくなる諸将・・
諸将は、献帝の威光を利用するのに味をしめ、周辺の領地や人民を勝手に
自分の領地に組み込んでは上表し、贈物や官位を要求しました。
医者や召使まで、皆、校尉や御史に任命され、印綬が間にあわないので、
錐で印綬に直接文字らしきものを刻みつけて与えても、
それさえ足りないという官位の濫発も起きていました。
いよいよ、食糧が尽き果てて、ここも限界と見た、董承や楊奉は、
さらに洛陽に向けて出発しようと安邑を後にします。
すると先行していた張楊(ちょうよう)が食糧を携えて道に待ち構えていたので、
一行は喜び、張楊を大司馬に任命しました。
こうして、洛陽に帰還した献帝ですが、その有様は安邑以下でした。
宮殿は焼け落ちて再建されず、辺りは塀が残っているだけで草ぼうぼうです。
周辺の都市には群雄がいるのですが、皆、献帝のピンチを見て見ぬふりで
ただ、自分の支配地の防衛を固めるだけでした。
食糧はまたまた、底を突きだし、侍中以下百官は、自ら薪を集めて、
献帝と自分達の食事を作らないといけない程に困窮し、
食べるものがなく土塀にもたれかかり餓死する官さえ出ました。
三国志ライターkawausoの独り言
結局、洛陽でもまともに暮らせず、董承の手引きで献帝が、
曹操の本拠地である許へ移動するのは、これから間も無くの事でした。
このように悲惨な境遇に落ちた献帝ですが、その中で自分を支えてくれる
公卿百官の真心に触れ、図々しくも親しみを持って接する庶民と触れあう事で
冷たい血の通わない浮世離れした皇帝では無くなっていきました。
実際、長安にいる時にも、戦乱で飢えに苦しむ庶民に対して宮殿の蔵を開いて
食糧を放出して炊き出しをしたり、衣類がない百官や宮女の為に、
名馬を売り払って、絹を調達するなど、情け深い側面を窺わせる話があります。
許に入ってからは曹操の傀儡(かいらい)になりますが、
もし、権力を握るようになってもこれだけ苦労して情け深い人柄なら、
名君になったかも知れません。
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