諸葛亮字は孔明。蜀の軍師・政治家として名高い人物です。しかし、彼が劉備に出会うまでの話については、あまり知られていません。そこで今回は劉備に出会う前の諸葛亮についての話をします。
諸県の葛氏
歴史書『三国志』によると、諸葛亮は琅邪郡陽都県のを本籍地にしていることが分かります。琅邪郡陽都県は現在の山東省沂南県です。実は諸葛亮の先祖は最初から「諸葛」という姓ではありませんでした。「諸葛」姓の誕生の説は2つ存在します。
(1)諸県(現在の山東省)出身の「葛」という姓の人が陽都県に移住したところ、たくさんの「葛」姓の人がいたので、「諸県の葛氏」=諸葛と改姓した。
(2)秦末の農民反乱で功績を立てた葛嬰の孫が、前漢(前202年~後8年)の初めに諸県に封建されたことから諸葛と改姓した。
2つのうちどれが本当かは分かりませんが、共通しているのは先祖が諸県に移住していたことです。諸葛亮の家族は父の諸葛珪・兄の諸葛瑾・弟の諸葛均、叔父の諸葛玄、さらに継母と姉が2人です。実母は記録の中に出てこないところから、諸葛亮を生んですぐに亡くなったのかもしれません。
1回目の逃亡 徐州の大虐殺
諸葛亮の父の諸葛珪は太山の副知事にまでなりました。しかし、諸葛亮が幼い時に病気で亡くなりました。家の主は自然に長男の諸葛瑾に移りました。けれども、諸葛瑾は20歳程度の若者であるため経済基盤がありませんでした。そこで諸葛亮と諸葛均、さらに彼の2人の姉は叔父の諸葛玄の任地である豫章(現在の江西省南昌市)に行きました。一方、諸葛瑾は継母を連れて江南に逃れました。歴史書『三国志』によると諸葛瑾が江南に行った理由は「戦乱から逃れる」ということでした。時期や具体的な理由がはっきりしないので戦乱というのが何か分かりません。ですが、諸葛亮の出身地の琅邪郡から考えられる戦乱というのは1つだけあります。
曹操による徐州の大虐殺です。徐州の大虐殺は初平4年(193年)に曹操の父の曹嵩が、徐州の知事の陶謙の部下に殺されたので、曹操が報復を口実に領内に攻め込んだ事件です。この事件でたくさんの民が殺されたのは有名な話です。こうして見ると、諸葛亮一家が逃げた理由として考えてもよさそうです。
2回目の逃亡 豫章を追われて荊州へ
さて、どうにか叔父の諸葛玄の任地である豫章に身を寄せた諸葛亮でした。ところが、それもつかの間でした。間もなく朝廷から朱皓という人物が派遣されました。朱皓は諸葛玄が任命されている豫章太守の交代を命令しました。実は諸葛玄は、朝廷から正式に派遣された豫章太守ではありませんでした。この時期は袁紹と袁術が天下を争っていた時代であり、彼らが朝廷を無視して勝手に決めた太守を派遣することが多かったのです。諸葛玄は袁術から派遣された偽の豫章太守でした。結局諸葛玄は、豫章太守の座を朱皓に渡した後に、仲の良い荊州の劉表のもとに身を寄せました。諸葛亮も叔父に従いました。なお、叔父の諸葛玄は別の史料では悲惨な最期を遂げたことになっています。
(1)朱皓と揚州の長官の劉繇が結託して諸葛玄を攻撃。諸葛玄は敗北して、現地住民により殺される。
(2)劉繇と朱皓は協力して諸葛玄を攻撃して敗走させる。ところが劉繇が援軍として寄越した人物が朱皓を殺して仲間内の争いになる。最終的に再び、朝廷が介入して収束する。諸葛玄の消息は不明となる。
以上が歴史書『三国志』に記されている異説であり、小説『三国志演義』も(1)を採用しています。だが、史料として説得力に欠けているようです。やはり諸葛玄は普通に明け渡して、劉表のいる荊州に向かったと考えるのが普通でしょう。
三国志ライター 晃の独り言
諸葛亮は荊州に到着した後は、劉備と出会うまで戦乱に巻き込まれることはありません。だけど、劉備と出会ってからまた逃げることになるのです。3回目は民を連れて曹操軍から逃げた逃避行です。しかし、それはまた別の話にします。
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