諸葛亮の幼い日はどんなだった?

2018年12月20日


 

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諸葛瑾と諸葛孔明

 

諸葛亮(しょかつりょう)字は孔明(こうめい)。蜀の軍師・政治家として名高い人物です。しかし、彼が劉備に出会うまでの話については、あまり知られていません。そこで今回は劉備に出会う前の諸葛亮についての話をします。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸県の葛氏

諸県の葛氏

 

歴史書『三国志』によると、諸葛亮は琅邪(ろうや)陽都(ようと)県のを本籍地にしていることが分かります。琅邪郡陽都県は現在の山東省沂南(ぎなん)県です。実は諸葛亮の先祖は最初から「諸葛」という姓ではありませんでした。「諸葛」姓の誕生の説は2つ存在します。

 

(1)諸県(現在の山東省)出身の「葛」という姓の人が陽都県に移住したところ、たくさんの「葛」姓の人がいたので、「諸県の葛氏」=諸葛と改姓した。

 

(2)秦末の農民反乱で功績を立てた葛嬰(かつえい)の孫が、前漢(前202年~後8年)の初めに諸県に封建されたことから諸葛と改姓した。

 

2つのうちどれが本当かは分かりませんが、共通しているのは先祖が諸県に移住していたことです。諸葛亮の家族は父の諸葛珪(しょかつけい)・兄の諸葛瑾(しょかつきん)・弟の諸葛均、叔父の諸葛玄、さらに継母と姉が2人です。実母は記録の中に出てこないところから、諸葛亮を生んですぐに亡くなったのかもしれません。

 

 

 

1回目の逃亡 徐州の大虐殺

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諸葛亮の父の諸葛珪は太山の副知事にまでなりました。しかし、諸葛亮が幼い時に病気で亡くなりました。家の主は自然に長男の諸葛瑾に移りました。けれども、諸葛瑾は20歳程度の若者であるため経済基盤がありませんでした。そこで諸葛亮と諸葛均、さらに彼の2人の姉は叔父の諸葛玄の任地である豫章(よしょう)(現在の江西省南昌市)に行きました。一方、諸葛瑾は継母を連れて江南に逃れました。歴史書『三国志』によると諸葛瑾が江南に行った理由は「戦乱から逃れる」ということでした。時期や具体的な理由がはっきりしないので戦乱というのが何か分かりません。ですが、諸葛亮の出身地の琅邪郡から考えられる戦乱というのは1つだけあります。

 

処刑を下す曹操

 

曹操(そうそう)による徐州の大虐殺です。徐州の大虐殺は初平4年(193年)に曹操の父の曹嵩(そうすう)が、徐州の知事の陶謙(とうけん)の部下に殺されたので、曹操が報復を口実に領内に攻め込んだ事件です。この事件でたくさんの民が殺されたのは有名な話です。こうして見ると、諸葛亮一家が逃げた理由として考えてもよさそうです。

 

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2回目の逃亡 豫章を追われて荊州へ

豫章を追われて荊州へ逃亡する諸葛亮

 

さて、どうにか叔父の諸葛玄の任地である豫章に身を寄せた諸葛亮でした。ところが、それもつかの間でした。間もなく朝廷から朱皓(しゅこう)という人物が派遣されました。朱皓は諸葛玄が任命されている豫章太守の交代を命令しました。実は諸葛玄は、朝廷から正式に派遣された豫章太守ではありませんでした。この時期は袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)が天下を争っていた時代であり、彼らが朝廷を無視して勝手に決めた太守を派遣することが多かったのです。諸葛玄は袁術から派遣された偽の豫章太守でした。結局諸葛玄は、豫章太守の座を朱皓に渡した後に、仲の良い荊州の劉表のもとに身を寄せました。諸葛亮も叔父に従いました。なお、叔父の諸葛玄は別の史料では悲惨な最期を遂げたことになっています。

 

(1)朱皓と揚州の長官の劉繇(りゅうよう)が結託して諸葛玄を攻撃。諸葛玄は敗北して、現地住民により殺される。

 

(2)劉繇と朱皓は協力して諸葛玄を攻撃して敗走させる。ところが劉繇が援軍として寄越した人物が朱皓を殺して仲間内の争いになる。最終的に再び、朝廷が介入して収束する。諸葛玄の消息は不明となる。

 

以上が歴史書『三国志』に記されている異説であり、小説『三国志演義』も(1)を採用しています。だが、史料として説得力に欠けているようです。やはり諸葛玄は普通に明け渡して、劉表のいる荊州に向かったと考えるのが普通でしょう。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

諸葛亮は荊州に到着した後は、劉備と出会うまで戦乱に巻き込まれることはありません。だけど、劉備と出会ってからまた逃げることになるのです。3回目は民を連れて曹操軍から逃げた逃避行です。しかし、それはまた別の話にします。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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