呉は武将が手薄だなんて言う人もいますが、呉にも優秀な武将はたくさんいます。そのうちの1人としてよくその名を挙げられるのが太史慈です。
しかし、優秀な人物であったことは有名だけれど、太史慈が呉の武将として活躍したエピソードは何かと問われると言葉に窮してしまう人も多いのではないでしょうか?
太史慈のエピソードとして特に有名なものといえば、孫策と一騎打ちを演じたことです。この後、太史慈は孫策に降伏して孫策の配下となるのですが、当然そのときは孫策に仕えていたわけではありません。太史慈は呉の武将となった後、一体何をしていたのでしょうか?
一応、太史慈は呉の武将としてそれなりの活躍を見せていました。劉表軍の侵攻を防いだり、黄祖討伐で武功を挙げたりして、孫策や孫権から大切にされただけではなく、曹操からもスカウトを受けていたそう。
そんな太史慈ですが、かの有名な赤壁の戦いの前に亡くなってしまっています。呉にとっての大決戦である赤壁の戦いに参加できなかったために、なんとなく太史慈が活躍している場面を浮かべにくいのですね。ところで、太史慈はなぜ亡くなってしまったのでしょうか?今回は太史慈の死因について追究していきたいと思います。
『三国志演義』では矢傷が原因で死亡
太史慈は赤壁の戦いの前に亡くなっているのですが、
なんと『三国志演義』では存命。
赤壁の戦いでも
甘寧に負けないくらいの大活躍を見せ、
魏軍を圧倒しています。
そして、
その後は合肥の戦いにも参加。
魏の猛将である張遼と一騎打ちを演じ、
手に汗握る戦いの末に引き分けています。
その後、
太史慈は魏軍を混乱に陥れようと策を練るのですが、
見破られてしまった挙句、
逆に張遼の計略にかかって矢傷を受ける失態をしてしまいます。
そのときにはなんとか一命を取り留め、
陸遜らに助けられてなんとか撤退したのですが、
結局は矢傷が元で亡くなってしまったのでした。
おそらく矢に毒が塗られていたか、
矢傷から悪い菌が入って
それにより体が侵されて亡くなってしまったのでしょう。
ただ、
これは飽くまで小説である『三国志演義』の話。
実際の死因はどのようなものであったか、
正史『三国志』を確認してみましょう。
正史『三国志』では死因は明らかにされず
正史『三国志』では、
太史慈の死については次のように記されています。
年四十一、建安十一年卒。
(年四十一にして、建安十一年に卒す。)
なんともあっさり…。
なぜ死んでしまったのかがさっぱりわかりません。
ちなみに、この部分には
裴松之によって次のような注が付されています。
呉書曰、慈臨亡、
嘆息曰「丈夫生世、当帯七尺之剣、以升天子の階。
今所志未従、奈何而死乎!」
権甚悼惜之。
(『呉書』に曰はく、慈亡ぬるに臨み、
嘆息して曰はく「丈夫世に生まるれば、当に七尺の剣を帯び、
以て天子の階段を升るべし。
今志す所未だ従わず、奈何にして死せんや!」と。
権甚だ悼み之れを惜しむ。)
裴松之は『呉書』を引用し、
太史慈が死の間際に遺した言葉を紹介してくれていますが、
ここでも特に死因については触れられていません。
年齢的には病死?
正史『三国志』の本文を読んでも注を読んでも
太史慈の死因を知ることはできません。
しかし、
それぞれの記述から
太史慈は病死したということが推察されます。
まずは、
太史慈の年齢が41歳であったということ。
昔は平均寿命が短かったと考えられますが、
それでも80歳以上まで年を重ねる人はいました。
それなのに、
たったの41歳で亡くなっているということからは、
老衰などによる自然死ではなかったということが窺えます。
また、戦で死んだという記述も無いため、
戦死という線も薄いです。
そして、
裴松之注が引く『呉書』によれば、
今際の際の言葉が遺されていることから、
自らの死に際がわかる状態にあったことが窺えます。
これらのことから
太史慈は何らかの病によって床に伏し、
亡くなったと考えることができるでしょう。
三国志ライターchopsticksの独り言
太史慈が何の病によって亡くなったのかはわかりません。
しかし、
正史『三国志』の本文や注に鑑みるに、
病に苦しんだ挙句亡くなったと考えるのが自然でしょう。
孫策と一騎打ちを演じた豪傑も
病には勝てなかったと考えると
なんとなく切ない気持ちになりますね…。
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