馬超は蜀(221年~263年)の武将です。蜀に仕えていた期間は非常に短く、活躍期間も後漢(25年~220年)の時期なので、正確には後漢末期の武将が正しいと思います。実は馬超は妻がいたようです。当たり前かもしれませんけど、筆者は馬超に関しては子も妻もいるという感じがしないのです。そこで今回は馬超の妻に関して解説致します。
馬超の反乱
建安16年(211年)に曹操は征西を行う決意をします。表向きは五斗米道の張魯の討伐ですが、これを口実に西方に割拠している軍閥を始末する気でいました。
危険を感じた馬超は韓遂や他の将軍と一緒に反乱を起こしました。一方、曹操も出陣しました。
馬超は曹操を捕縛するつもりでしたが、曹操の周囲を許褚が護衛していたので近づけません。『三国志演義』では馬超と許褚の一騎打ちが行われるのですが、これは創作です。この戦で馬超は曹操を追い詰めますが、許褚の奮戦により阻まれます。しかし、曹操も長期戦は出来ません。そこで曹操は参謀の賈詡の策を取り入れました。
その結果、馬超と韓遂は仲違いを起こして曹操に敗北しました。馬超の父の馬騰と一族は、馬超が反乱を起こした責任を追及されて処刑されました。
冀城の戦いと馬超
父と一族を殺された馬超は再起を図りました。馬超の再起には五斗米道の張魯も協力していました。建安18年(213年)に、馬超は涼州刺史の韋康を攻撃しました。韋康は馬超の攻撃に耐えきれずに降伏しました。
また、援軍の夏侯淵も馬超に撃退されました。窮地に立たされた韋康は民の命を守るために降伏したのです。ところが、馬超は容赦なく韋康を処刑しました。
女傑 王異の策
韋康を殺されて黙っていなかったのは、部下の趙昂でした。そこで妻の王異と策を練りました。趙昂の妻の王異は甲冑を付けて戦うほどの女傑でした。王異は馬超の妻の楊氏に接近しました。
楊氏の年齢は分かりませんが王異と年齢は変わらなかったと思います。『三国志』では王異は楊氏に接近する時に、昔のたとえ話を出して楊氏の関心を買います。でも、筆者は女同士だから妻ならではの苦労話をしたと思いますよ・・・・・・楊氏は王異とすっかり親しくなりました。一方、馬超も趙昂を信用しました。趙昂は仲間の楊阜と連絡をとり、馬超に反撃する機会をうかがいました。
馬超の妻の死
ある日、楊阜が外から攻撃をしてきたので馬超が迎え撃ちました。趙昂は馬超が留守になった隙に、馬超の兵士や妻の楊氏に一斉に襲い掛かりました。馬超が気付いた時は、すでに遅く、みんな殺されていました。ちょうどその時に、曹操から派遣された張郃の援軍が来て馬超は敗北しました。馬超は命からがら漢中の張魯のもとに逃げました。
三国志ライター 晃の独り言
こうして馬超は敗北しただけではなく、大切な妻を失いました。馬超のもとにいるのは、従弟の馬岱と子の馬承と娘が1人だけです。なお、漢中に逃げたあとに馬超の境遇に同情した張魯が、自分の娘を嫁がせようとしました。しかし、ある人物が次のようなことを言いました。
「あんな風に身内の者を愛さない人間が、どうして他人を愛することができるのですか?」
それを聞いた張魯はさすがに思いとどまったという話でした。
※参考
・林田慎之介『豪勇の咆哮 (人間三国志)』(初出1989年 のち集英社文庫 1992年)
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)』 2000年に改題)
・渡邉義浩『三国志 (図解雑学)』(ナツメ社 2000年)
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