三国志では女性絡みで呂布が怒りを覚え、殺されたとされる董卓。悪人面で描かれることが多い悪人・董卓ですが、もしも呂布が董卓を暗殺していなければ、世界はどうなっていたのでしょうか。
ここでは「董卓」をテーゼにif三国志を紹介していきます。
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なぜ呂布は董卓に従ったのか?
一騎当千の呂布。関羽や張飛、劉備と同時に剣を交えたとされます。そんな豪傑がどうして非道な董卓に従ったのでしょうか。
もともと呂布には「丁原」というボスがいました。当時の都だった洛陽は丁原と何進が牛耳を執っていたものの何進は殺されてしまいます。
時を同じくして洛陽入りした董卓をこれを機とばかりに丁原軍を乗っ取るプランを立てます。そこで注目したのが丁原の部下、呂布だったのです。
呂布は腕力こそ強いですが、政治や軍略という側面ではめっぽう弱かったのです。
あっさり董卓に操られ、呂布は丁原を殺します。
その後、董卓が呂布を厚遇したことから、甘い言葉にでも乗せられたのでしょう。地位や名誉に目がくらんだ呂布が董卓の操り人形となるのは目に見えていました。
戦略家でもあり悪人・董卓
暴虐さばかりが取りざたされる董卓ですが、かなりの切れ者でした。戦で羌族に包囲された董卓は川で魚を取るフリをして、川をせき止めます。
もちろん兵糧が不足していたこともありましたが、真の狙いは川の水を貯めておくことでした。現在でいうダムをイメージするといいでしょう。
さて、十分に川の水が貯まったとみた董卓。敵のスキをついて川下へと逃亡します。その後を追う羌族。
しかし、タイミングよくダムを決壊させた董卓により川の水が一気に増水します。戦略をもたない羌族はせっかく包囲した董卓を取り逃がしてしまうのです。
反董卓連合軍も畏れた董卓のパワー
酒池肉林の象徴ともいえる董卓ですが、腕力もなかなかでした。
呂布には及ばないものの西の荒れた土地で異民族を何千何万と殺してきたのですから、名だたる武将も簡単には手だしできません。
董卓一人でも非常に強いのですから、傍らに呂布がついている恐怖といったら、ドイツ帝国のアドルフ・ヒトラーとソ連のヨシフ・スターリンを合わせたようなものです。
さらに董卓は洛陽に入った後、丁原だけでなく何進の兵士たちをM&Aしています。
その兵力は現在のアメリカとロシアを合わせたぐらいの規模があったのでしょう。
こうした兵力を背景に董卓は洛陽の地で権勢を奮います。洛陽は当時の中国の都ですから、皇帝のような存在として董卓は君臨していました。
董卓が呂布に暗殺されなかったら?
頭の堅い呂布は董卓の部下の王允に洗脳され、董卓暗殺へと傾きます。
呂布は董卓のそばにいつでもいられるような地位にいましたから、董卓が未央宮にいる皇帝をお見舞いに来たときにやすやすと暗殺することができました。戦場以外で呂布が人を殺したのは、これが初めてかもしれません。
しかし、呂布や王允は董卓暗殺ばかりを考え、どのような政治を行うかという青写真がありませんでした。批判の強かった董卓ですが、「統治」という面では優れていたことが分かります。
その証拠に呂布は董卓を暗殺した後、放浪。王允に至っては自分の部下に殺されてしまいます。
理由は呂布が消え、部下に怖いモノがいなくなったからです。王允には呂布という戦力がなければ、大した恐れもなかったのです。
「董卓死亡」の知らせは兵士だけでなく、民をも歓喜の声を上げます。しかし、政情は安定せず戦乱の世へと突入していくのです。
つまり、董卓、呂布というツートップはバランス良く勢力均衡を保っていたとも言えます。皇帝に次ぐほどの権力を持つと心が揺れ、正常な判断ができなくなるのは現代の政治家にも見られます。
おそらく董卓は部下に信頼されていなかったのでしょう。それが暗殺の遠因です。董卓は暴虐のシンボルでしたが、生きていたら政治的には落ち着き、彼の自然死とともに別の人物が反乱を起こしていたでしょう。
三国志ライター上海くじらの独り言
実は反董卓連合軍も一枚岩ではありませんでした。曹操もその一員でしたが、董卓討伐には失敗しています。
やはり国を維持するには悪人・董卓のようなカリスマ性が必要だったのです。
結局、反董卓連合軍は崩壊し、内乱状態に陥ります。
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