諸葛亮の死因は過労が原因で本当に亡くなったの?

2019年5月5日


 

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夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

 

(しょく)丞相(じょうしょう)諸葛亮(しょかつりょう)諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)()を討伐するためになんども北伐(ほくばつ)を行いますが、五回目の北伐戦で亡くなってしまいます。

 

 

過労死する諸葛孔明

 

 

どうして諸葛亮(しょかつりょう)は亡くなってしまったのでしょうか。諸葛亮が亡くなった原因は過労にありました。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備死後から働き続ける諸葛亮

鄧芝が孔明にアドバイス

 

 

諸葛亮は劉備(りゅうび)死後、(しょく)丞相(じょうしょう)に就任。諸葛亮は蜀の丞相に就任すると休むことなく働き続けることになります。

 

 

城の前を掃除する孔明

 

 

まず諸葛亮は蜀の丞相に就任すると夷陵の戦い(いりょうのたたかい)で疲弊した蜀の国力を向上させるため、内政を整え、夷陵の戦いで決裂した()との同盟を再締結させることに力を尽くします。

 

 

孔明君のジャングル探検

 

 

その後諸葛亮は劉備死後に蜀の南部で反乱を起こした異民族たちを討伐するため、自ら兵を率いて出陣。

 

 

7回捕まり孔明にボコボコにされる孟獲

 

 

諸葛亮は蜀の南部を平定することに成功します。諸葛亮は蜀の丞相に就任してから内政を整えたり、呉との国交回復、南蛮制圧戦(なんばんせいあつせん)など人に任せることなく自分で行っていき、休む暇もなく働きづめの毎日を過ごしていました。

 

 

 

 

北伐も総大将として出陣する諸葛亮

北伐する孔明

 

 

諸葛亮は南蛮制圧成功後、魏を討伐する北伐戦を開始。諸葛亮は魏討伐戦も誰かほかの将軍に任せることなく、自ら総大将として出陣します。

 

 

ドケチな孔明

 

 

諸葛亮は北伐を行う際、自ら作戦を立案し、軍の規律を重んじるため、鞭打ち20以上の刑罰を自ら行っていました。また諸葛亮は北伐軍の兵糧や金銭を管理する出納帳も自ら管理していたそうです。

 

 

仲の悪い魏延と楊儀

 

 

また諸葛亮は軍事に優れた能力を持った魏延(ぎえん)と卓抜な事務能力を持った楊儀(ようぎ)が対立していたため、彼らが対立しないように調整するのも彼の仕事の一つでした。このように諸葛亮は北伐で魏軍(ぎぐん)を討伐することに注力するだけでなく、蜀軍の内部の仕事も多忙で心休まる日が無い毎日を過ごしていました。

 

 

孔明と黄月英

 

 

諸葛亮はこのような毎日を過ごしていたため、五回目の北伐戦の時、休む暇もなく働き過ぎたせいで病を発病することになり、亡くなってしまいます。では諸葛亮がどうして自分の仕事を他の人に任させなかったのでしょうか。

 

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諸葛亮が仕事を任せなかった理由とは?

姜維と孔明

 

過労で病を発病して亡くなってしまった諸葛亮(しょかつりょう)。彼はどうして自分の仕事を他の人に任せなかったのでしょうか。

 

 

董允

 

 

蜀には諸葛亮が自分の死後、丞相に指名した蒋琬(しょうえん)費禕(ひい)董允(とういん)など政治に優れた人物がたくさんいました。

 

 

蜀の魏延

 

 

また軍事面では魏延(ぎえん)を筆頭に王平(おうへい)張翼(ちょうよく
)
張嶷(ちょうぎょく
)
姜維(きょう い
)
など優れた将軍がいました。

 

 

魏延からの提案を却下する孔明

 

 

上記のように優れた人材がそろっていたにも関わらず、諸葛亮が彼らに仕事を任せなかったのは、すべての仕事を自分でチェックしなくては気が済まない、性格の持ち主だったからではないでしょうか

 

 

三国志の計略と孔明

 

 

悪く言えば上記のようになりますが、諸葛亮の性格を良く表現すれば、責任感のある性格だったともいえるでしょう。もし諸葛亮が蒋琬(しょうえん)費禕(ひい)董允(とういん)らに仕事を分担していれば、過労で倒れる事もなかったかもしれません。

 

 

孔明を持ち上げる魏延

 

 

また蜀には軍事面でも決して人材がいなかったわけではないので、魏延(ぎえん)や張翼らに軍勢を与えて、仕事をある程度裁量させていれば、諸葛亮が過労で病にかかる事もなかったかもしれません。あくまでレンの予想ですが、皆様はどのように思いますか。

 

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

諸葛亮は自分の仕事を他人に任せなかったため、働きづめになってしまい、過労が原因で亡くなってしまいます。

 

 

馬謖に重要な仕事を任せるなと孔明に伝えて臨終を迎える劉備

 

 

諸葛亮は劉備が生きている間、このように働きづめではなく、劉備が亡くなった後に休みなく働き続けることになります。どうして諸葛亮は劉備死後に働きづめになるのか。

 

 

孔明と劉備、関羽、張飛

 

 

レンの推測ですが、劉備に原因があったと思われます。劉備は諸葛亮へ「劉禅(りゅうぜん)の事を頼む」と遺言を残しています。

 

 

劉禅と孔明

 

 

 

責任感の強い諸葛亮は劉備から遺言を託されると蜀の国と劉禅を支えなくちゃいけない責任に駆られ、働き続けることになったのではないでしょうか。もしレンの推測が当たっていれば、劉備のせいで諸葛亮が亡くなったともいえるのではないでしょうか。

 

■参考 正史三国志蜀書など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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