楽毅(がくき)は、キングダムにもレジェンド武将として登場する他に、
三国志では諸葛亮孔明が自分の目標とする人物として
斉の管仲(かんちゅう)と共にあげている人物です。
では、この楽毅どうしてこんなに称えられているのでしょうか?
その理由について説明します。
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この記事の目次
肉親の肉入りのスープを飲んだ 先祖の楽羊
楽毅の先祖は楽羊(がくよう)という人物でした。
元は中山という遊牧騎馬民族の出身ですが魏に仕えて逆に
中山国を滅ぼす為に遠征してきます。
怒った、中山国は楽羊の父母を探しだして殺してスープにして、
楽羊に送りつけました。
すると、楽羊は、そのスープを平らげてしまったと言います。
それを知った魏の文候は肉親よりも軍命を優先する楽羊に感激しますが、
それを見た家臣が、すかざず
「楽羊は親の肉さえ食べました。
赤の他人である主君の肉を喰うのは何でもありますまい」
と進言したので文候は楽羊を気味悪がり重く使わなくなります。
楽毅、中山国に産まれる
その後、楽羊は征服した中山国に領地をもらい住んでいました。
ほどなく中山国が復興すると、楽羊の子孫は再び中山国に仕えます。
ここから100年程経過して産まれたのが楽毅でした。
楽毅が中山国に仕えて間もなく、中山国は、趙の武霊王(ぶれいおう)の
騎馬軍団によって撃破されて滅亡します。
楽毅は、武霊王の雄大さに惹かれて、そのまま趙へと仕えます。
武霊王、無念の最期、楽毅は魏に出奔する
しかし、紀元前295年、武霊王は王位継承のごたごたで、
息子の恵文(けいぶん)王の軍勢に宮殿を包囲され餓死して死ぬ
という悲惨な最後を迎えます。
楽毅は、これを機に趙を離れて魏に向かい、昭王に仕えますが、
燕の昭王が人材を求めていると聴いて、そのまま魏の使者として、
燕に向かい、魏には還りませんでした。
復讐の鬼、燕の昭王(しょうおう)
燕の昭王は、太子の時代に斉に侵攻されて燕が滅亡寸前まで行くという
屈辱を経験していました。
その恨みを晴らすべく、昭王は復讐の鬼となり、国内を改革して、
多くの人材を集めていたのです。
楽毅曰く、燕の国力では斉には太刀打ちできません
楽毅を任用した昭王は、燕の国力で私が生きている間に斉を倒せるか?
と問います、その問いを楽毅は即座に否定しました。
当時の斉は西の秦と並んで、東帝、西帝を自称する程に強大でした。
燕が名君である昭王の力で建て直されたとしても、逆立ちしても
勝ち目はないと断言したのです。
諦めきれない昭王は、さらに楽毅に問う
しかし、諦めきれない昭王は、さらに「何か方法はないか?」
と楽毅に問いました、すると楽毅は方法はあると答えます。
五か国連合軍を組織し斉を撃破する
燕の独力では、斉に対抗できません、しかし斉を恨んでいる
秦、韓、趙、魏、と極秘に連合して斉を撃てば、
これを倒すのは難しくありません。
楽毅のアイデアに昭王は飛びつき直ぐに極秘で
連合軍を結成する準備に入っていきます。
斉の湣王(びんおう)は暴虐無道
折しも、当時の斉の王は湣王という人物で暴虐無道でした。
国力の大きさに胡坐をかいて、諸国を馬鹿にして弱い国は併合し、
やりたい放題であり、燕のみならず多くの国の恨みを買っていたのです。
さらに湣王は戦国四君の1人で外交に長けた孟嘗(もうしょう)君を追放しました。
これにつけこんだ、楽毅は、まずは趙を説得し次に魏と韓を入れて、
最後に二大強国として斉が邪魔な秦を味方に引き込みました。
楽毅、五か国連合軍50万の総司令官になる
紀元前284年、楽毅は、燕、趙、韓、魏、秦の五カ国連合軍の
総大将として、50万の大軍を率いて突如斉に攻め込みます。
斉は20万の軍勢を動員しますが、楽毅は斉西の戦いで斉を撃破しました。
以後、楽毅は燕軍単独で破竹の勢いで進軍を開始します。
斉の七十余の城を次々と陥落させ、恐れた斉軍は楽毅が来ると聴くと
抵抗せずに城門を開ける程でした。
斉は、追い詰められた湣王が立て籠る莒(ろ)と
田単(でんたん)が守備する即墨(そくぼく)の二城のみが残ります。
燕の昭王、大喜びする
楽毅は斉の都、臨淄(りんし)を占領して、
国内の宝物を全て燕に送り込みました。
昭王は念願を叶えてくれた楽毅を賞賛して、わざわざ前線まで来て
楽毅を称えて昌国君にして領地を与えました。
これにより燕の昭王の楽毅への信頼は絶対になります。
湣王死去するも、落ちない二つの城
湣王は、中立を保っていた楚に援軍を要請しますが、やってきた将軍
淖歯(とうし)は、逆に湣王を殺して好き放題を始めます。
それに憤慨した莒の民は淖歯を殺して湣王の息子、法章(ほうしょう)を
探して王に立てました。
これが斉の襄王(じょうおう)ですが、意外に有能な人で住民を纏め、
即墨と莒は燕軍の攻撃にも屈服せず、数年間の籠城に耐えます。
楽毅も力攻めは被害を大きくすると考え、包囲し食糧を断つ作戦に出ました。
燕で昭王が死去し恵王が即位する
紀元前279年、復讐の鬼だった燕の昭王は死去し、
息子が恵王(けいおう)として即位します。
ところが、恵王は楽毅と仲が悪い人物でした。
それを知った、即墨の司令官の田単は、密偵を放って、
流言を流します。
「楽毅は、斉王になるという野心を持っている、だから、
力攻めをすれば落ちる二城を落とさず斉の民心を集めようとしている」
この流言は、燕の恵王に届きます、そして、それを真に受けた
王は、楽毅を首にして、新しい司令官を送り込みます。
楽毅はこのまま燕に戻ると危ないと思い、趙に亡命しました。
田単、燕軍を撃破し、斉を回復させる
新しい司令官の騎劫(ききょう)は、楽毅の10分の1の能力もありませんでした。
それを見て取った田単は、反撃に転じて、燕軍を撃破します。
浮足だった燕軍を追撃しつつ、田単は、燕に奪われた七十余城を
またたく間に回復させて斉を復活させました。
楽毅が書いた報遺燕恵王書(ほうい・えんけいおう・しょ)
燕の恵王は、楽毅を解任して亡命させた事を後悔しました。
同時に恨みを持った楽毅が、趙の軍勢を借りて燕を攻めるのではないか?
と恐れて、趙にいる楽毅に向かって書を送ります。
「将軍は、私が田単の計略に掛かったと思い、趙へ亡命したようだが
私の真意は、将軍に休息を与える事でした。
それを誤解して趙に走ってしまうとは、それが、先王の恩義に報いる道でしょうか?」
それに対して楽毅は、懇切丁寧な文を書いて寄こします。
これが報遺燕恵王書で、燕の昭王への感謝と忠義の心が現れていて、
後世、これを読んで泣かないものは忠臣に非ずと言われました。
諸葛亮の出師の表と同格
楽毅の報遺燕恵王書は、諸葛亮が北伐に至って劉禅に書いた、
出師の表に匹敵するそうです。
ここでも、楽毅と孔明の奇妙な因縁を感じますね。
楽毅は、結果として秦を助けただけだった
燕の恵王の誤解を解いた、楽毅は、趙と燕を往来して趙で死去します。
そして、田単によって救われた斉ですが、形の上で領土は戻っても、
かつての勢いはどこにもありませんでした。
結局、楽毅の勝利は、ダメージの無かった秦を強大化させ、
秦の一強対、弱小六か国という対立構図を造り上げただけだった
と言えるのかも知れません。
秦にとって、楽毅は恩人と言えるかも知れませんね。
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