特に、姜維は諸葛亮の成し遂げられなかった北伐を引き継ぐなど、自らが孔明になったような活躍ぶりを見せます。
しかし、諸葛亮が姜維を引き抜いた顛末を見ていくと、彼が単純に姜維を個人的に気に入ったわけではない疑惑が出てきました。
諸葛亮が姜維をスカウトした本当の理由、、それは早死にした英雄、錦馬超ジュニアを生み出す為でした。
※この記事はkawausoの推測と妄想が入っています。
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この記事の目次
諸葛亮の戦略から姜維のポジションが見える
諸葛亮の北伐の最終目標は無論、魏を倒して漢を再興する事でした。
そして、その為に孔明が重要視したのは涼州を魏の勢力下から切り離し、精強な羌や胡というような騎馬民族を蜀の戦力に組み込む事です。
でも、この戦略、どこかで見た事がないでしょうか?そう、潼関の戦いで馬超が取った戦略によく似ているのです。
馬超は関中の自治独立を願い、曹操の関中軍閥への圧力に不安を感じて韓遂を誘い込み、父の馬騰を見殺しにしてまで挙兵しました。
この時に馬超がアテにしたのも羌や胡、氐のような異民族です。
しかし潼関の戦いでは、曹操が車を横倒しにして俑道を造って騎兵の突撃を防ぎさらに、馬超と韓遂の心の隙を突いた賈詡の離間計が的中して
戦いは曹操の勝利に終わります。
馬超は蜀に降り、そのプランは孔明が受け継ぐ
重火器の発達で騎馬の突撃が無効になるまで、優秀な騎兵を保有している事は戦局を大きく左右しました。
後漢を興した光武帝も、烏桓突騎を切り札として大事にしています。
馬超から直接聞いたかどうかは不明ですが、諸葛亮の北伐プランは潼関の戦いの動機のように魏の支配下から涼州を分離して、
その精強な騎兵を蜀の駒とする事だったとkawausoは推測します。
荊州を失陥して二正面攻撃ができない孔明は、馬超のプランを換骨奪胎しますが、馬超は47歳で死去してしまい、
涼州きっての名門カリスマを使う事は出来ませんでした。
【北伐の真実に迫る】
天水の名門姜維を得た時、孔明のプロデュースが動き出す
西暦228年、北伐によって天水の名門豪族姜維を得た事で一度は頓挫した諸葛亮のプランが復活しました。
なにしろ姜維は、天水の四姓と呼ばれた、姜、閻、任、趙の名族であり、それも筆頭というサラブレッドだったのです。
諸葛亮「姜伯約は天水の名族、彼を特別扱いして官位を引き上げ、馬超jrとして売り出せば、涼州の人心をガッチリマンデー
諸葛丞相ってば姜維を売り出すなんて、なんて敏腕プロデュース3世紀の秋元康だわ、なんちて、なんちて、ウヒョ」
とまぁ、要約するとこんな感じで、諸葛亮は姜維の才能ばかりではなく名門の部分を重要視し、馬超jrとして売り出す事を決めたのです多分・・
すでに南蛮王moukakuを売り出していた諸葛亮
実は、諸葛亮プロデュースは姜維が最初ではありません。
それより前の西暦225年に、劉備の死を突いて反乱を起こした雍闓と高定に従って叛いた孟獲を七縱七禽の末に心服させて、
そのまま南中の有力者として使うという事をやっています。
※正史三国志蜀志諸葛亮伝が引く漢晋春秋
これだって、七縱七禽などは疑わしいと言えば疑わしい話です。
最初から孔明と孟獲の間に協定があり、八百長をやったとしても不思議はないのです。
いずれにせよ、諸葛亮はこういう人を使ったプロデュース力があり、孟獲の次に白羽の矢を立てたのが姜維だったとも考えられるのです。
急速に引き立てられていく姜維
姜維を得た後の諸葛亮の厚遇ぶりは以下の通りです。
①二十七歳の姜維を辟召、倉曹掾・奉義将軍を加え当陽亭侯に封じた。
②留府長史張裔、参軍、蔣琬に書簡を与えて姜維をベタ褒めする。
③軍事の教練を終えたら成都に連れて行き劉禅に拝謁させると書簡で言う
④諸葛亮の存命中に姜維を中監軍・征西将軍に昇進させた。
蜀は、さらなる投降者を誘う為に、魏からの投降者に対して破格の扱いをするのが常ですが、それにしても姜維の昇進スピード速いと言えます。
これでは、老母に帰ってきてくれと請われても、いや蜀では出世の望みがあるから帰らないと言うでしょうね。
※正史三国志蜀志姜維伝が引く孫盛「雑記」
また、④に挙げた西征将軍は、歴史上は馬騰、夏侯淵、鄧艾、それに自称ですが馬超も名乗っている官職です。
ここに、諸葛亮が姜維を厚遇した真意、孔明の馬超jrプロデュース計画を推測してみたくなるのです。
北伐絶対遂行マシーンと化した姜維
姜維に五六千人の中虎歩兵の調練を任せ、馬超jrとしてデビューさせようと着々と計画を進めていた諸葛亮ですが、
西暦234年には病を得、還らぬ人になります。これは、姜維としては痛恨の一事だったでしょう。
恐らく「お前は馬超jrとして魏を滅ぼし漢を再興するのだ」と諸葛亮に呪文のように言い聞かされていた事でしょうし、(妄想)
その為に破格の厚遇を得たのでしょうから姜維にとって、諸葛亮の恩義に報いるとは北伐の再開しかなくなります。
そんな北伐絶対遂行マシーン姜維は、費禕に対して以下のように言い、執拗に北伐の再開を望んでいます。
維自以練西方風俗 兼負其才武 欲誘諸羌胡以為羽翼 謂自隴以西可斷而有也
意訳すると、姜維は西方の風俗を良く知っていると自惚れ、併せて武略の才もあるので羌族や胡族を左右に従えて、
隴より西を分断したいという意味です。
馬超が実行し、諸葛亮が引き継いだ涼州を魏の勢力から分断して精強なる異民族の騎兵を独占するという北伐プランを姜維も受け継いでいたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
もし、諸葛亮にもう少し寿命があれば、姜維に異民族騎兵を率いさせ、自分は得意の謀略を駆使し
タッグを組んで北伐を実施する夢の師弟コンビが誕生したかも知れません。
姜維が最後まで北伐に固執したのは、絶対北伐遂行マンとして諸葛亮に期待されその為に鍛えられ、PRされ続けて、
もはや、北伐遂行外に自分の存在意義を見出せなかった不器用な姜維の生き甲斐だったからでしょう。
姜維の運命を狂わせた諸葛亮は、罪なプロデューサーですね。
参考文献:正史三国志
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