曹休は魏(220年~265年)の将軍であり、曹操の「族子」です。族子とは字面の通り一族の子を指しています。曹休は近くて「おい」と考えられています。
曹休は小説『三国志演義』では呉(222年~280年)の周魴の策に引っかかり大敗する情けない人物の印象が強いと思います。しかし、史実の曹休はどんな人だったのでしょうか?そこで今回は正史『三国志』をもとに曹休について解説しようと思います。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
「史実 曹休」
などのワードで検索する人にもオススメ♪
関連記事:曹休の墓はどうやって発見されたの?DNA鑑定が出来なかった理由は?
関連記事:曹休が虎豹騎と呼ばれる最強部隊を率いていた?どんな部隊なの?
曹操をたずねて3千里
曹休の父の名は史料に残されていません。彼の家族は戦乱から逃れるために故郷である沛国焦県を離れて呉まで逃れていました。
やがて父が亡くなると曹休は故郷ではないので、仮の葬儀をすませました。初平元年(190年)に曹操が董卓討伐のために挙兵したことを耳にした曹休は、急いで旅に出ました。
名前を変えて遠回りしながら、どうにか曹操と合流に成功!出会った曹操は部下に対して「曹休は我が家の千里も走ることが出来る仔馬である」と言います。
現代風に言えば「こいつは将来、オリンピック選手になれる!」と親が近所に自慢するようなもんです。すっかり曹休を気に入った曹操は曹休を曹丕と同等に育ててあげました。さらに、精鋭の騎馬隊である「虎彪騎」も曹休に指揮をさせました。
張飛と呉蘭を撃退する曹休
建安23年(218年)に蜀(221年~263年)の劉備が大将の呉蘭を出動させて曹操をけん制します。曹操は曹洪と曹休を派遣しました。曹休は曹洪の参軍(軍官)でしたが出兵にあたり曹操は、「お前の位は参軍だが、実際は指揮官だぞ」と言いました。
その話を耳にした曹洪は軍事の全てを曹休に任せます。一方、劉備は張飛を援軍として派遣して曹洪と曹休を分断しようとしました。諸将は呉蘭と張飛のどちらを討てばよいのか迷います。
すると曹休は、「蜀がこちらの糧道を断つ気ならば、兵士を潜ませながら、こっそりと行動するはずです。それなのに、大声を上げているのはその気が無いからです。敵の態勢が定まらいないうちに強い張飛ではなく、呉蘭を襲撃しましょう」と提案します。
こうして呉蘭は攻撃を受けて敗北。張飛も逃げ帰ることになりました。
石亭での敗北と無念の死を遂げる曹休
曹操が亡くなり曹丕が即位してからも曹休は呉との戦いで活躍します。黄初7年(226年)に曹丕が亡くなると、曹休は司馬懿・曹真・陳羣と一緒に後事を託されます。
だが、太和2年(228年)に曹休はとんでもない墓穴を掘りました。この年に曹休と司馬懿は呉に侵攻します。
曹休は魏に降伏希望を出していた呉の周魴の言う通りに軍を進めます。周魴は自分の降伏が偽りでないことを示すために、目の前で髪の毛を切る芝居をしました。昔の中国では髪の毛を切ることは、親からもらった肉体を傷つけることになるので親不孝と言われていました。
周魴の計略を信じていなかった魏の将軍である賈逵は、曹休を注意しました。だが、曹休は前から賈逵を嫌っていたので聞く耳を持ちません。
結局賈逵の言う通り、曹休は惨敗!不孝はさらに重なります。退却して石亭に駐屯していますと、兵士たちが何か物音にでも驚いたのか勝手に騒いで逃げだす始末・・・・・・
結局、魏軍は自滅で終了しました。帰ってきた曹休は謝罪しますが、曹叡は責任をとらせるどころか、逆に前よりも待遇よく扱います。それが曹休のプライドを傷つけてしまいました。前から背中に出来ていた悪性の腫瘍が悪化してしまい、間もなくこの世を去りました。
享年不明です・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言 曹叡による曹休への引退勧告疑惑!?
以上が曹休の生涯でした。この記事を執筆中に感じたことがありました。
それは曹叡による曹休への引退勧告疑惑です。帰ってきた曹休に対して降格するどころか、前よりも待遇をよくします。いくら曹休が曹家に3代に渡り仕えているとはいえ、普通はありえない処置です。
筆者の推測ですけど曹叡が曹休の待遇をよくしたのは、「今までの功績に泥をぬりたくなければ、それで今後の進退を考えておきなさい」とさりげなく諭したのではないでしょうか?
たぶんスポーツ選手の引退勧告と似たようなものだと思います。
皆様はどう思いますか?
※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。
曹休ファン、または記事に異論・反論・批判のある人はコメントをお願いします。
関連記事:曹休が赤壁の戦いに参加していたら曹操は天下統一できた?