それまで漢の忠臣のポーズを取っていた曹操の魏王朝への土台固めに見える転身は
「綺麗ごと言っても、やっぱり天下が欲しかったんだろ?」という人間の浅ましさを際立たされる行動にも思えます。
でも、曹操が魏王になったのは野心以外のやむを得ない事情によるものだったとしたらどうしますか?
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この記事の目次
後漢の中央集権に苦しめられる曹操
では、ここで皆さんに質問です。
後漢の時代において、州牧と刺史と太守と県令ではどちらが偉いですか?
ここで、ええっと、と考えてしまったあなた、残念間違いです。
答えは、全部同じ、皇帝の下に全部対等です。
そもそも、中央集権制は皇帝の下に全ての権力を集めるものですから、皇帝以外に命令系統に上下が存在しては困るのです。
例えば、州牧から郡太守に命令が発せられる時には最初に皇帝に上奏して許可を得た上で県令に命令書が回ってきます。
そうでないなら、ある程度の権限を皇帝から予め委譲します。
これは中央集権制の特徴であって、現代日本でも県知事と市長と総理大臣の間に身分の上下というのはありません対等です。
ただ、後漢時代と違うのは、これら行政の首長を任命しているのは皇帝ではなく国民であるという事です。
しかし、曹操はこの中央集権制に苦しめられる事になります。
軍権を持つ太守や州牧という存在
後漢の末期、董卓によって統治機構をバラバラにされてしまった後漢ですが、それでも中央集権は建前だけでも存在していました。
群雄たちは、自分が実力支配している土地の長になる時には、事後承認でも何でも一応上表して献帝に送っています。
その後、献帝から上表を裁可するアクションが常にあるわけではありませんが漢の天下を蔑ろにしてはいませんよというポーズを取ったのです。
さて、そんな群雄割拠の時代、群雄は州牧や州刺史になる事が多いのですがこれは、このような役職が軍隊を保有する事が出来るからです。
ただし、例え州牧になっても領域下にある郡太守や県令、県長というポストは州牧と立場が対等であって独裁的に動かす権限がありませんでした。
特に郡太守は、それぞれ郡を統治する兵力を保有していました。
反董卓連合軍に名前を連ねた人々を見てみても、
陳留郡太守張超、河内郡太守王匡、東郡太守橋瑁、渤海郡太守袁紹、後将軍袁術、冀州牧韓馥、豫州刺史孔伷、
兗州刺史劉岱等が名を連ねています。
※袁術は後将軍ですが、南陽郡太守も兼ねています。
彼らは郡太守・州刺史として一定の兵力を動員できる立場にあり、だからこそ反董卓で挙兵する事が出来たのです。
曹操も、この郡太守だらけの反董卓連合軍に参加しましたが、彼の肩書は行奮武将軍だったので自前の兵力がなく資金援助や財産処分で
お金を造り、ようやく五千の募兵を獲得し参加を勝ち取っています。
兗州の反乱、でも呂布についた連中を処罰できない曹操
西暦192年、曹操はようやく兗州牧に推挙されました。
ただし、これは朝廷が裁可したものではなく朝廷からは州刺史として金尚が派遣されましたが、曹操は追い返しています。
しかし、曹操は地元名士を蔑ろにした対応を取った事で兗州の人望を失い西暦194年に二度目の徐州侵攻を行っている最中に張邈と陳宮に叛かれます。
彼らは新しい州牧として呂布を引き入れ、兗州は僅か3県を除き悉くが呂布についてしまうのです。
曹操は急いで兗州に戻り、二年近い激闘の末に呂布を追い払い兗州の支配を奪還しますが、反乱の当事者である張邈や張超を攻め滅ぼした以外は
呂布についた太守や県令、県長を処分する事はありませんでした。
理由は後漢の中央集権制の為に、曹操に太守や県令の行動を法的に処罰する権限が存在しない為でした。
曹操が兗州牧であろうと、郡太守も県令も県長も立場は対等なのでそれに従う義務はないわけです。
ハラワタが煮えくりかえる曹操ですが中央集権の壁の前に泣き寝入りするしかありません。
領土が拡大する程、権限の小ささに悩む曹操
曹操は、徐州大虐殺で名士層に嫌われた悪名を払拭しようと献帝擁立に動きます。
また、屯田制を辺境ではなく荒廃した領地内で行い生産性を向上させます。
曹操の支配地域は、幽州、青州、冀州、并州、司隷、兗州、豫州、徐州、雍州、涼州の十州に拡大していきますが、
同時に曹操は自己の権限の小ささに悩みます。
それは、曹操が直接動かせる兵力が冀州だけであるという事です。
曹操のポストが冀州牧なので冀州の兵力は動かせますが、後漢の制度では州牧を兼任する方法はありませんでした。
もちろん、献帝は傀儡なので曹操に忠誠を誓う人物を州牧にするのは可能ですが建前上、これらの州牧と曹操の立場は後漢の臣として
同じになってしまいます。
例えば袁紹は青州、幽州、并州に息子や血縁者を州牧として送っていますがこれは血縁者が一番裏切りにくいだろうという理由からです。
曹操は、十四州ある中国の州区分を古来からの九州にしようとするなどして冀州牧の権限を強めようとしますが、荀彧に反対されたりして
骨折り損になります。
魏王曹操が手にした承制
西暦215年9月、翌年の魏王即位に先んじて献帝より曹操に承制を許す詔が出ます。
では、承制は何かというと献帝が握っていた官爵の裁可権を曹操に与える事です。
献帝は、曹操が張魯討伐で遠路にあり、人事について遠距離を越えて裁可を求める面倒を避けて、信賞必罰を速やかに行えるように
承制を認めるとしたのです。
これにより曹操は献帝の裁可を得ずに自己権限で、部下を州牧や太守に任命できる権限を手にできる事になります。
さらに翌年の5月には、曹操は遂に魏王に封じられました。
後漢では、劉氏以外に王は封じられていないので曹操の魏王封国は少なからぬ衝撃を中華全土に与えた事でしょう。
承制と魏王になった事により、名実共に曹操は州牧や刺史、太守のような後漢の臣たちに対して法律的にも上位に立つ事になります。
しかし曹操の魏王封国は、もう易姓革命の一歩手前であるという後漢の滅亡を暗示するアクションとして受け取られる事になりました。
三国志ライターkawausoの独り言
kawausoは、曹操は自分の代では天下を取る気はなかったと予想します。
儒教に批判的であったとはいえ、曹操自身は後漢の制度の中で権力を維持したからです。
しかし権力を天子に集中する名目で生み出された中央集権制は、間接的に献帝の威光を利用して権力を維持したい曹操にとって
著しく不利でした。
小さな勢力である間はそれで良くても、ライバル劉備が蜀を得て、孫権が江南で地盤を固めるに至っては、
もう誤魔化しは通じないと観念し魏王になって直接、人事を握る方向に舵を切ったのです。
そして、後漢の枠組みの中にもう一つの中央集権国家である魏が出来た以上、
二重の中央集権制を解消する為に後漢が消えるのは必然だったのです。
参考文献:正史三国志武帝紀他
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