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呂布の死因は2つの説が存在した!?豪傑呂布の死因を考察

2020年1月12日


 

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赤兎馬にまたがる呂布

 

呂布(りょふ)だ~!呂布が来た!」と「真・三国無双」のモブキャラのものまねを大学時代は、友人と一緒にやっていた筆者です。

「どんな大学ライフだよ?」と首をひねりたくなる読者の皆様もいるでしょうが、それだけ筆者はヒマだったということでした。

 

呂布の英雄石像

 

さて、今回は後漢(25年~220年)末期に登場して各地の群雄と戦った呂布の最期について解説します。

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呂布の降伏

曹操と呂布

 

建安3年(198年)に呂布(りょふ)袁術(えんじゅつ)と手を結んで、曹操(そうそう)に叛旗を翻しました。呂布は、まず部下の高順(こうじゅん)を派遣して小沛に駐屯している劉備(りゅうび)を攻撃して打ち破ります。

 

夏侯惇と呂布

 

曹操はすぐに夏侯惇(かこうとん)を劉備の援軍に差し向けますが返り討ちにされました。小説『三国志演義』で夏侯惇はこの時に、高順配下の曹性(そうせい
)
に弓矢で目を打ち抜かれて片目が不自由になってしまいます。

 

目玉を食べる夏侯惇

 

しかし、それは『三国志演義』の虚構であり、史実の夏侯惇が目を負傷したのは4年前の興平元年(194年)の濮陽の戦いです。打ち抜いたのも曹性ではありません。おそらく、流矢に命中したのでしょう。

 

呂布

 

話がそれたので戻しますが、最初はイケイケムードの呂布でしたが、曹操が自ら出陣するとすぐに敗走してしまいます。下邳城を包囲された呂布は、曹操から袁術につくか自分につくかの二択を迫られました。考えている時間は無いので呂布は曹操に降伏することにしますが、部下の陳宮(ちんきゅう)がそれを阻止します。

 

高順が呂布に疎んじられた理由

 

それどころか呂布軍は滅茶苦茶でした。呂布は自分に1番忠実である高順を信用せず、軍師の陳宮は何かあったら曹操に降伏するな、と横槍を入れる。また、呂布の妻は「陳宮は信用出来ない」と言う始末。

 

曹操に捕らわれる高順、呂布、陳宮

 

こんなことが続くので、とうとう呂布の親戚である魏続と部下の宋憲・侯成が陳宮を取り押さえて曹操に降伏。陳宮を失った呂布は観念して曹操に降伏します。

 

呂布の死因 その1 劉備が原因

呂布のあっけない最後

 

正史『三国志』によると呂布は劉備により処刑されたことになっています。これは非常に有名な話であり、小説『三国志演義』でも採用されています。降伏した呂布は縛られますが縄がきつかったらしく、「縄がきついので緩めてください」と英雄としてみっともない弱音を吐きます。

 

呂布のラストウォー 処刑される呂布

 

曹操は「虎(呂布)を縛るのだから当たり前でしょう」と言いました。すると呂布は「曹操殿が恐れているのは私でしょう。あなたと私がタッグを組めば最強です!どうですか?」と交渉を持ち掛けてきました。この時、曹操は催眠術にかかったように心が揺れ動きました。呂布はメンタリストですか?

 

曹操に命乞いをする呂布と反対する劉備

 

曹操が許そうとしたその時、劉備が飛び出して、「この呂布が、丁原と董卓を殺したのを忘れましたか?」と言いました。思い出した曹操は、「そうでした」と頷きます。一方、呂布は劉備に向かって「劉備こそ一番信用出来ないのだぞ!」と叫びますが、もう手遅れでした。呂布は絞首刑にされてしまいました。

 

呂布の死因 その2 王必が原因

裴松之(歴史作家)

 

この話は正史『三国志』に注を付けた裴松之(はいしょうし)が史料として採用した『献帝春秋』という史料に掲載されています。まず、王必とはだれでしょうか?

彼は曹操が挙兵した当初から付き従った最古参の部下の1人であり、当時は曹操の秘書のような存在です。

 

曹操から水攻めを受ける呂布

 

『献帝春秋』によると呂布が縄を緩めるように頼んだ相手は曹操で間違いないのですが、命乞いをした相手は劉備にされています。この時の曹操の態度は非常に冷めており、「なんで自分じゃなくて劉備に命乞いをするんだ?」と言っています。

 

ただし曹操が呂布を許してやろうと思ったのは、正史『三国志』と変わっていませんでした。その時に口を出したのが劉備ではなく曹操の秘書をしていた王必です。

 

「呂布は手強い奴です。彼の軍勢が外にいるのですから、縄を緩めてはいけません」と王必は言いました。それを聞いた曹操は呂布を処刑する決意を固めます。こうして呂布は刑場の露に消えました。

 

三国志ライター 晃の独り言 どっちが正しいの?

三国志ライター 晃

 

以上が呂布の死因に関する2つの説です。陳寿は劉備を採用しており、王必を斬り捨てております。裴松之もこの件に関しては特に言及していません。これは裴松之が『献帝春秋』という書物を嫌っているからです。耳にたこができるほど何度も解説したことありますが、『献帝春秋』は裴松之が「史籍の罪人」という評価をしています。

 

裴松之はおそらく、「また作り話か・・・・・・」と思って相手にしなかったのでしょう。しかし筆者は、『献帝春秋』の方がリアルに感じる。曹操ではなく劉備に命乞いをするシーンは命の危機が迫った人間がやりそうなことだし、曹操の側近である王必が呂布の殺害を提案する方が納得がいきます。

 

さて、読者の皆さんは正史と『献帝春秋』どちらをとりますか?

 

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呂布

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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