「狡兎死して走狗烹らる」という中国の故事があります。狩猟で、あまりに優秀な猟犬がすべてのウサギを狩りつくしてしまうと、当の猟犬の利用価値がなくなってしまい、最後には猟犬自身が主人に食われてしまうことになる、ということです。
『史記』にかぎらず、その後の中国の歴史を見ても「まさに『狡兎死して走狗烹らる』だな」と嘆息するような事例がたくさんあります。いや中国史のみならず、日本史、世界史でも、このパターンはとても多いでしょう。
のみならず現代の政治家や経営者のニュースを聞いても「まさに走狗烹らる!」と呟きたくなるニュース、たくさん思いつくのではないでしょうか。
三国志の後半にも、見事な例があります。鍾会です!
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司馬昭に「お前は私にとっての張良だ」と絶賛されていたものの
鍾会といえば、鄧艾と並んで、「蜀を滅亡させた将軍」としての知名度が高いでしょう。あわせて、「せっかく蜀を滅亡させて大功績を作ったのに、姜維にそそのかされて突然の謀反をたくらみ自滅した残念な人」という印象も強いかもしれません。
ですがその経歴を追ってみると、周囲がうらやむような輝かしいキャリアであったことがわかります。『三国志演義』から、彼への言及や登場シーンを並べてみましょう。
・少年時代からたいへんな秀才として城下でも評判だった
・毌丘倹の反乱の際には、若くして司馬師の軍に参謀格として従軍し、いろいろなアドバイスをして存在感を発揮していた
・ちなみに、目の手術の直後で体調が悪かった司馬師に「あなたが自分で討伐軍を率いて出征しないと示しがつかないでしょう」というアドバイスをして、無理な出陣をさせたのは鍾会
・司馬師が(案の定)病気で急逝し、司馬昭が後を継ぐと、すかさずその参謀役になっている
・毌丘倹の乱の直後に発生した諸葛誕の反乱においては、呉の援軍ルートを断ち、諸葛誕の軍勢を罠に嵌めて投降者を続出させるなど、手早い処置で司馬昭を感嘆させた
・このとき、司馬昭は「お前はわしの張良だ!」と絶賛している
張良といえば、かの『項羽と劉邦』の戦いで、韓信と並んで劉邦の天下統一に貢献した名参謀。
張良が参謀役で、韓信が軍の指揮官だったわけですから、「お前は張良だ」という発言、司馬昭が鍾会を、常に傍らにおいてアドバイザーとして使いたがっていた発言と解釈できます。このまま進んでいけば、王の補佐役として生涯安泰な身分だったでしょう。
どこで軌道が狂った?張良というよりは韓信ルートに突入していった鍾会
ところが鍾会自身は軍事への興味が強かったようで、この後、「船をたくさん建造して、呉に攻め込むという偽装工作をしておいて、突然、そのために集めた大軍を蜀攻めに投入する」という遠大な軍事計画を提案し、受け入れられます。
鍾会としては、司馬昭の帷幕で参謀の役回りで安泰に生きるよりは、軍事面でもっともっと活躍したかったようですね。たしかに、「蜀攻略」こそたくさんの先輩が成し遂げられなかった偉業。成功していれば軍事面でまちがいなく英雄として評価されていたところだったでしょう。
鍾会としては、「司馬昭の張良といわれるよりも、司馬昭の韓信として評価されたい」といったところだったのでしょうか。しかし忘れてはいけないことがあります。
かつて韓信は劉邦の天下統一のために多大な功績を残しつつ、最後にはその劉邦から使い捨てられて、悲惨な最期を遂げました。
その韓信、部下に「あなたはいずれ劉邦に殺されることになる!狡兎死して走狗烹らるという故事にならないように、むしろ勇気をもって独立し、劉邦と対決すべきだ!」とアドバイスされていながら、「いや、劉邦様はそんなことはしないだろう」とのんきに構え、結局は殺されました。
鍾会の場合は、「独立に踏み切って、そのせいで殺された」わけですから、韓信とはある意味、真逆の発想をしています。ところがそれをやった途端に、「待ってました」とばかりに殺されたのですから、彼もまた『狡兎死して走狗烹らる』の故事にふさわしいという意味では、韓信とよく似ていると言えそうです。
まとめ:『狡兎死して走狗烹らる』になるな!とアドバイスされたせいで烹られた、浮かばれない鍾会
ところが、鍾会と『狡兎死して走狗烹らる』の故事の関係は、もっと複雑です。
実は鍾会に対して、
「かつて韓信は、主君に対して反乱に踏み切らなかったために、『『狡兎死して走狗烹らる』の典型のような末路をたどったのだ。あなたはそうならないように、早く決起しなさい』と、まさにこの故事を引用してそそのかした人物がいるのです。
誰あろう、姜維ですね。『三国志演義』によると、まさに韓信の事例を引き合いに、鍾会に反乱を決意させています。で、その言葉にまんまとのった鍾会は、韓信とは逆の判断をしながら、けっきょくはみごとに「狡兎死して走狗烹らる」の典型のような死に方をしたわけです。
鍾会のような秀才肌では、司馬昭やら姜維やらを相手には、とてもとても太刀打ちできず、いずれは『烹らるる』運命をまぬがれることはできなかった、ということでしょうか?
三国志ライターYASHIROの独り言
くわばらくわばら。大人の世界はおそろしい。現代人の私たちも、気を付けましょう!
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