陳寿の正史三国志は、曹操悪玉史観が定着する前の史料なので比較的公平に曹操についても記されていると評価されています。しかし、そうは言っても陳寿は曹魏から禅譲を受けて建国された晋の官僚であり、晋の正当性を高める為に曹魏の事績を盛るという事は、所々でやっていました。それは曹操が兵力の劣勢を覆し袁紹に勝利したとされる官渡の戦いでもそうだったのです。
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よく見るとオカシな曹軍1万vs袁軍十数万
三国志武帝紀によると、袁紹は公孫瓚の軍勢を破って四州を併呑し、兵力十数万と書かれています。そしていよいよ曹操を一飲みにしようと許に進軍を開始しました。一方で、曹操の軍勢は官渡で籠城している段階で1万人に満たず、しかも負傷者は20%から30%でおまけに食糧に乏しいとされています。
確かにこの部分だけ見ると、大軍で官渡城の曹操軍を押しつぶそうとする袁紹に対し、1万以下で負傷者2~3割の曹操は青色吐息のように見えますね。これで勝利したのであれば、控えめに見ても、まさに神算鬼謀、奇跡の逆転勝利でしょう。でも、この兵力差、よく正史三国志を読んでみると、オカシな部分だらけなのです。
袁紹の兵力と曹操の兵力はカウントの時期が違う
そもそも、この袁紹軍十数万に対し、曹操軍1万未満というのは同時期に計算したものではありません。袁紹軍十数万とは官渡決戦の直前の西暦200年2月の兵力です。これから許に進軍しようというのですから、兵力が多いのは至極当然と言えます。
逆に、曹操軍が1万未満というのは、白馬・延津の戦いで袁紹を撃破し、その後袁紹の兵力とにらみ合い官渡城に籠城した西暦200年8月の兵力で半年も経過しています。
つまり、陳寿は袁紹については開戦前の兵力を記述し、曹操については戦いが佳境に近づき、かなり負傷兵が出た状態の兵力でカウントしています。これでは曹操の兵力がより少なく、袁紹の兵力がより多くなるのは当然で、陳寿の統計は当てにならないのです。
陳寿が意図的でないとしても、この時期をずらした兵力のカウントは他人に誤読を誘発するので、感心できないやり方です。
時系列でみると兵力1万人はあり得ない
白馬・延津は例外として、後は官渡に籠っている印象の曹操ですが、本当は序盤から終盤までちょこまかと細かく手を出しているのが史書から判明します。以下は、官渡決戦に関係ありそうな部分の抜粋です。
①建安4年(199年)4月以降、曹操は黎陽に進軍。臧霸らを青州に進入させて斉・北海・東安を破らせ于禁を黄河の畔に留屯させた。
②建安4年(199年)9月、曹操は許に帰還し兵を分けて官渡を守らせた。
③同年12月曹操は官渡に入城した。
④建安5年(200年)正月、劉備を小沛で破り妻子を捕らえ、将軍夏侯博を生け捕る。下邳で関羽を破り降伏させる。
⑤建安5年2月、袁紹南下。曹操、白馬・延津で袁紹軍を撃破、顔良・文醜敗死。
⑥同年8月、袁紹が軍営を連ねて漸進し沙塠に依って駐屯。軍営は東西数十里に及んだ。曹操も軍営を分って相対し合戦したものの結果は良くなかった。
⑦袁紹はさらに進んで官渡に臨み土塁や坑道を造り、曹操は陣内に同様に作って対抗させた。
②の部分に注目して下さい。曹操は許に帰還して兵を分けて官渡を守らせていますね。
つまり、少なくとも官渡に兵を割いた許には兵力があるという事です。実際、曹仁が汝南辺りで兵を挙げた劉備と劉辟を討伐して敗走させ、劉備の兵力は数千と書かれているので、曹仁はそれと同等か上回る兵力で臨んだ事でしょう。これも許に兵力がある証拠です。
⑥で曹操は東西数十里に及ぶ袁紹の陣営に対抗し軍営をわけてドンパチしていますが、兵力1万未満でそんな事が可能なわけはありません。ここはやはり官渡城に籠城した兵力だけが1万人未満で、それ以外にもちゃんと兵力はいたと考えるのが自然です。
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