建安16年(211年)に西涼の韓遂・馬超の連合軍は曹操と戦います。『三国志演義』やゲームの「三国無双」では馬超や許褚の戦いで知られています。
最終的にこの戦いは馬超と韓遂の仲間割れでゲーム・オーバー。曹操の勝利に終わりました。さて、実は韓遂・馬超連合軍の将軍に皇帝と縁続きの人がいました。それは梁興です。今回は正史をもとに梁氏一族と梁興について紹介します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています。
この記事の目次
外戚 梁氏一族
梁興の一族は安定郡(現在の寧夏回族自治区)の出身です。永康元年(126年)に一族の梁商就職して宮中に入ります。梁商は後漢(25年~220年)第4代皇帝和帝の母の甥なので宮中とは縁が深かったのです。つまり、梁商は外戚(=皇帝の一族)でした。さて、永康3年(128年)に後漢第8第皇帝順帝は梁商の娘にプロポーズ。こうして梁氏一族と後漢王朝の縁は、一層濃くなりました。
たかがウサギ程度で処刑を言い渡す梁冀
父の梁商の死後、政権は息子の梁冀に渡されました。しかし、この人物は非常に問題のある人物でした。首都洛陽の周囲に広大な庭を造園。みんなのためではなく、自分の遊びのために使います。また、これとは別に「兎園」というウサギがいる庭を造園。やはり自分が狩猟するためのものであり、他人が入ることは禁じました。だが、それを知らなかった人が偶然入ってウサギをとってしまいました。可哀そうなこうとにその人は処刑されたのでした。
子供の発言にカチン!とくる梁冀
梁冀は無教養な人間であり宮中に勤めているのに読み書き・計算は、ほとんど出来なかったようです。また、ブサイクだったそうです・・・・・・男は顔じゃなく心であると言いたいが人は見た目が9割と最近では言いますね。順帝の死後、9代目は冲帝を即位させますが、この人は在位1年で病死。仕方なく、10代目には質帝を即位。
即位当時の質帝は8歳。梁冀を見て「跋扈将軍」と叫びます。「跋扈」とは強くてわがままに振る舞うことです。子供だからふざけたのでしょう。だけど、梁冀は冗談が通じません。とうとう質帝を毒殺してしまいます。大人げない・・・・・・
妻には頭が上がらない梁冀
ところが、こんな梁冀にも妻がいました。名前は孫寿といって美人でした。賢い人物だったらしく、梁冀もこの妻には頭が上がりません。ただし、孫寿は嫉妬深い性格であり梁冀が友通期という妾を囲ったことを知ると、怒って友氏一族を抹殺してしまいました。夫のためとはいえやり過ぎです・・・・・・。しかし孫寿は梁冀一筋でもありません。彼女は自分の屋敷の召使いと密通していました・・・・・・。夫も夫なら、妻も妻です
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