伊達政宗には数々の逸話・エピソードが残されています。中にはとても過激なものもありますし、後世の作り話と分かっているものもあります。今回は、それらをなるべく政宗の人生に沿って解説していきたいと思います。
まずは、やはり有名な右目の眼帯からいってみましょう!
この記事の目次
伊達政宗の右目に眼帯していたのは本当?
映画やドラマなどで伊達政宗が描かれるときに、右目に眼帯をしているのをよく見かけますよね。
しかし、これは嘘!近年の創作です。どうも、1942年に製作された映画『獨眼龍政宗』から始まっているようです。それが、インパクトがあったので、その後の作品に踏襲されたということのようです。文献には、右目を覆っているという記述は全くありません。
2016年の大河ドラマ『真田丸』では、こういったことを念頭に置きながらも「誰だか分かりにくい」ということから白い包帯を右目にしています。苦肉の策で、史実ではありません。また、この目のことは次のエピソードにも続きます。
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片倉小十郎が右目をえぐり出した?
政宗は、幼少のころに天然痘により右目を失明します。その際に、飛び出てしまった右目を片倉小十郎が小刀で貫き、目をえぐり出したという逸話があります。
ですが、これも嘘!
政宗の遺骨は綺麗に残っており、それを研究した結果、眼球を取り出した痕跡はないと結論づけられています。また、左目は普通の人よりも大きく見開いていた可能性が指摘されています。片目では見えにくいので、しっかり見られるように進化していったのでしょうか。人体は不思議です。
現在の解釈では、眼帯などはしておらず、右目は白濁していたのではないかと考えられています。実際に、そのような肖像画が残っています。その一方、政宗は「生まれたときには右目も普通だったから」と肖像画には黒目を入れるように言っており、そういった絵の方が多いのもまた事実です。
大きなコンプレックスであったのでしょうね。まだ目に関して続きます。
伊達政宗は独眼竜というあだ名で呼ばれていた?
政宗は、独眼竜というあだ名も有名ですよね。大河ドラマのタイトルも『独眼竜政宗』でした。ですが、これも政宗が生きていたころには使われていなかったと考えられています。
ということで、半分嘘です。
この「独眼竜」という言葉が政宗に対して使われているのは、古くとも江戸時代後期(政宗の死後かなり経ってから)です。ですが、これが語感もいいし政宗のイメージにぴったりだったので、広く浸透していきます。そもそもの「独眼龍」というあだ名を持った人物が中国にいました。
独眼龍というあだ名を持った唐代末期の軍司令官
唐代末期で最強といわれている李克用です。彼も隻眼(もしくは片目が極端に小さい)であったと伝わっています。また、鴉軍(カラス軍)という黒色に統一した軍を率いたことも、政宗が黒漆を好んだこととも共通していました。今では、この後世の創作が、幼い頃に李克用のことを学んだ政宗が真似をして黒を好んだという話をする人がいますが、それは間違いです。
まあ、それほどぴったりなストーリーだったということです。ちなみに、同じように隻眼であった修行僧・萬海上人の生まれ変わりであるという説は存命中に唱えられています。この方は軍人ではありません。政宗の、軍人という側面よりも、晩年に領地を豊かにしたということに対しての尊敬の念によるものと思われます。また話は若い頃に戻ります。
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