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集まれ!三国志のジジイ武将を一挙紹介

2020年10月2日


 

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五虎大将軍b 関羽、張飛、馬超、趙雲、黄忠

 

三国志を代表するジジイ武将と言えば、五虎将軍の黄忠(こうちゅう)厳顔(げんがん)、呉で言えば赤壁の戦いで重要な役割を演じた黄蓋(こうがい)、晩年はかなりのジジイだった趙雲(ちょううん)や魏の張郃(ちょうこう)がいます。

 

蜀の厳顔

 

ここで、挙げただけで5人ですが、実は三国志には、まだまだ元気なジジイ武将が存在したのです。今回は老齢で元気に戦場に出たジジイ武将を紹介しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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71歳で護匈奴中郎将 田豫

海上での戦い10 田豫

 

田豫(でんよ)は劉備と共に黄巾賊討伐に参加した人物で82歳まで生きたと書かれています。生没年は不明ですが、西暦184年に戦争に参加できるレベルなら最低でも15歳にはなっている事でしょう。だとすると、西暦169年頃に誕生し82歳ですから西暦251年に死去した事になります。

 

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

そんな田豫の軍歴最終キャリアは、正始(せいし)年間(240~49)の初めに使持節・護匈奴中郎将(ごきょうどちゅうろうじょう)となり振威(しんい)将軍を加えられ幷州刺史(へいしゅうしし)を兼領した事で、異民族は田豫の威名を聞き相い率いて貢物を差し出し、周辺は落ち着いて百姓は懐いたと書かれています。西暦240年と言う事はこの時点で田豫は71歳となり古希を越えていたという事が分かりますね。

 

年を取った司馬懿

 

この後、田豫は洛陽に異動して衛尉になりますが、

 

「70歳を過ぎて役人やっているのも恥ずかしいので引退させて下さい」と、同じくジジイの司馬懿(しばい)に願い出て「いやいや、あなたは体が頑強だから大丈夫」と諭されて、なかなか隠居できなかったそうです。

 

具体的な戦闘記録がないのは寂しいですが、71歳で馬に乗って激務に耐えている時点で、立派なジジイ武将といえるでしょう。

 

75歳で初めて軍の指揮を執る 高柔

 

高柔(こうじゅう)兗州陳留郡圉県(えんしゅう・ちんりゅうぐん・ぎょけん)の人で、最初は高幹(こうかん)に仕えましたが、袁紹が滅ぶと曹操から離反した高幹を見限り曹操に仕えます。

 

以後、曹操にいつか殺してやると思われながらも、戦々恐々とキャリアを積み上げ、尚書郎(しょうしょろう)丞相理曹属(じょうしょうりそうぞく)潁川太守(えいせんたいしゅ)丞相法曹掾(じょうしょう・ほうそうじょう)を歴任。魏が建国されると廷尉として23年間も司法に携わりました。

 

苛ついている曹操

 

さて、純粋な官僚だった高柔は、嘉平元年(西暦249年)郭皇太后の詔勅で突如呼び出され、仮節(かせつ)行大将軍事(ぎょうだいしょうぐんじ)に任命され、曹爽の陣営を占拠するよう命令されます。この時、司馬懿は「高柔、君は周勃(しゅうぼつ)になってくれ」と言ったとか、幸いにも曹爽には決断力も戦意もなく陣営はあっさり制圧できました。

 

司馬懿と曹爽

 

なんの軍事キャリアも持たない高柔この時75歳、まあ、実際の戦闘は専門の将軍がやったのでしょうが、まさか、人生の最晩年に自分が大将軍として軍を指揮するとは高柔も夢にも思わなかったでしょうね。

 

曹髦

 

にわか手柄で高柔は万歳亭侯(ばんざいていこう)に封じられ、曹髦(そうぼう)が即位すると、安国侯(あんこくこう)に封じられ太尉(防衛大臣)を任されます。結局、高柔は景元4年(263年)まで生きて90歳の長寿で亡くなりました。

 

日々の生活を工夫で楽しくする『三国志式ライフハック

三国志式ライフハック

 

72歳、死ぬ寸前まで軍を指揮 ジジイ司馬懿

仮病を使う若き司馬懿に嫌がらせをする曹操

 

若い頃には、私は中風(ちゅうぶ)になりましたとジジくさい仮病で仕官を断っていた病弱イメージの司馬懿ですが、実際は根っからの軍人であり、強行軍と持久戦に耐える事が出来るタフな肉体の持ち主でした。

 

そんな司馬懿の最終戦歴は、嘉平3年(西暦251年)で、司馬懿は72歳になっていました。しかも、この時、司馬懿は本当に重病になっていて、宮廷に長時間参内出来ず、重要案件については、曹芳が司馬懿の屋敷を尋ねて相談するという逆立ち状態です。

 

孟達を討伐する司馬懿

 

こんな司馬懿の態度を横暴だと憤った王淩(おうりょう)がクーデターの計画を立てると、これを察知した病床の司馬懿は、自ら中軍を率いて船で流れに沿って進み、まさか司馬懿自ら来るとは思っていなかった王淩を捕らえる事に成功しました。

 

これが4月の事で、司馬懿が死の床に臥したのが6月、そして同年8月には死んでいるので、ジジイ将軍司馬懿は重病状態でギリギリまで戦い続けたと言えます。

【次のページに続きます】

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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