滕胤は、孫呉の末期に活躍した政治家です。
家柄が巨大なステータスだった三国志の時代、滕胤の一族は王族の劉繇と通婚。その事で貴種の血を入れたい孫権により娘を与えられ、孫呉の外戚となりました。しかし、滕胤そのものは家柄と血筋以外に、これという才能もなく孫権没後の王族間の騒乱に巻き込まれ、選択ミスから没落していくのです。
この記事の目次
滕胤の生涯とはズバリ!早見表!
時間がない人におすすめ滕胤とはズバリです。
1 | 王族劉繇と通婚した一族出身 |
2 | 劉繇没後、伯父や父が孫権に重用される |
3 | 色白で容姿がよく所作典礼に通じるだけのセレブ |
4 | 孫権の娘を娶り外戚の仲間入りする |
5 | 孫権没後、孫亮の補佐役に選ばれる |
6 | 孫峻が諸葛恪を誅殺すると形だけのナンバー2に |
7 | 孫綝と呂拠で呂拠を選んで失敗。滅ぼされる |
以上がザックリとした滕胤の生涯です。
ここかからは、少し詳しく滕胤の生涯を見ていきます。
父の代から呉に仕えたセレブ
滕胤は字を承嗣と言い、青州北海国劇県に生まれます。滕家は代々が劉繇の一族と通婚関係にあり、黄巾の乱で乱れた青州を捨てて長江を渡り劉繇を頼って揚州に避難しました。
しかし、劉繇が孫策に敗れて没落、孫策は劉繇の血筋を重視して、その遺臣を取り立てたので、ここで滕胤の伯父滕耽が孫呉に加わります。孫権は車騎将軍になると、滕耽を右司馬に迎え、滕耽が死ぬと後継がないので滕冑を取り立てました。
滕冑は文書整理や起草の仕事に就きますが、こちらも早くに没し、滕冑の子の滕胤が取り立てられます。その後、呉王になった孫権は、滕胤を都亭侯に封じました。
その後の滕胤は、張昭、孫紹、鄭礼と共同で朝廷の儀礼制度を整備したそうです。いかにも、家柄が良さそうな人物が就きそうな地位ですが、滕胤は色白で容貌が美しく、行状や立ち居振る舞いが見事でした。こうして、典型的なセレブとして成長した滕胤は、30歳で孫権の娘を妻に迎え孫呉の外戚となります。
孫権没後、新帝の補佐役に選ばれる滕胤
滕胤は、丹陽、呉郡、会稽の太守を務めた後、西暦252年、孫権没後に皇帝に即位した幼少の孫亮の補佐役として、諸葛恪、孫峻、孫弘と共に選ばれました。間もなく、孫峻は孫弘が諸葛恪誅殺を図っている事を諸葛恪に告げ共同で孫弘を滅ぼし、諸葛恪が権力を握ります。
この時、滕胤は特に何もしていませんが、諸葛恪の子の諸葛竦の妻が滕胤の娘だったので、混乱を何事もなく乗り切ります。その後、諸葛恪が合肥を攻めようとすると、滕胤は「今は時期ではない」と反対しますが、諸葛恪に押し切られました。
結局、諸葛恪の合肥攻めは失敗し、失脚を恐れた諸葛恪は独裁政治に拍車が掛かり、愛想を尽かした孫亮と孫峻が諸葛恪を誅殺し一族を滅ぼします。
孫峻政権ではお飾りナンバー2の滕胤
滕胤は諸葛恪が滅びると、諸葛恪の息子の義父である事を理由に役職を辞そうとしました。しかし、ナンバー2の滕胤が下りると、諸葛恪のような独裁者に見える事を気にした孫俊は辞職を許可せず、表面上は滕胤を敬い実権を与えない方針を取ります。滕胤も、孫峻を滅ぼすような覇気はなく2人の関係は、波風もたたずに上手く行きます。
ところが、孫峻は度々暗殺計画を立てられ、また俄かに北伐の真似事をして人望を失って精神的に追い詰められ、諸葛恪に殴られる夢を見て衰弱して急死しました。
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