滕胤とはどんな人?呉のセレブは判断を誤り残念な最期を迎える

2021年1月1日

編集体制の詳細を見る
kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

提供する掲載情報について

『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。

ただし、当メディア内での商品評価に関して、提携の有無や支払いの有無が影響を及ぼすことはありません。また、当メディアで得た収益は、読者の皆様により役立つコンテンツ制作へ還元し、情報の正確性担保に努めています。

詳しくは 編集ポリシー をご覧ください。


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

滕胤(とういん)

 

滕胤(とういん)は、孫呉(そんご)の末期に活躍した政治家です。

 

家柄が巨大なステータスだった三国志の時代、滕胤の一族は王族の劉繇(りゅうよう)と通婚(つうこん)。その事で貴種の血を入れたい孫権により娘を与えられ、孫呉の外戚となりました。しかし、滕胤そのものは家柄と血筋以外に、これという才能もなく孫権没後の王族間の騒乱に巻き込まれ、選択ミスから没落していくのです。

 

滕胤の生涯とはズバリ!早見表!

kawausoさんのキングダムがキター!

 

時間がない人におすすめ滕胤とはズバリです。

 

1 王族劉繇(りゅうよう)と通婚した一族出身
2 劉繇没後、伯父や父が孫権に重用される
3 色白で容姿がよく所作典礼(しょさてんれい)に通じるだけのセレブ
4 孫権の娘を娶(めと)り外戚の仲間入りする
5 孫権没後、孫亮(そんりょう)の補佐役に選ばれる
6 孫峻(そんしゅん)が諸葛恪(しょかつかく)を誅殺すると形だけのナンバー2に
7 孫綝(そんちん)と呂拠(りょきょ)で呂拠を選んで失敗。滅ぼされる

 

以上がザックリとした滕胤の生涯です。

ここかからは、少し詳しく滕胤の生涯を見ていきます。

 

父の代から呉に仕えたセレブ

 

滕胤は字を承嗣(しょうし)と言い、青州北海国劇県(ほっかいこくげきけん)に生まれます。滕家は代々が劉繇の一族と通婚関係にあり、黄巾の乱で乱れた青州を捨てて長江を渡り劉繇を頼って揚州に避難しました。

 

しかし、劉繇が孫策に敗れて没落、孫策は劉繇の血筋を重視して、その遺臣を取り立てたので、ここで滕胤の伯父滕耽(とうたん)が孫呉に加わります。孫権は車騎将軍になると、滕耽を右司馬に迎え、滕耽が死ぬと後継がないので滕冑(とうちゅう)を取り立てました。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

滕冑は文書整理や起草の仕事に就きますが、こちらも早くに没し、滕冑の子の滕胤が取り立てられます。その後、呉王になった孫権は、滕胤を都亭侯に封じました。

 

張昭

 

その後の滕胤は、張昭(ちょうしょう)、孫紹(そんしょう)、鄭礼(ていれい)と共同で朝廷の儀礼制度を整備したそうです。いかにも、家柄が良さそうな人物が就きそうな地位ですが、滕胤は色白で容貌が美しく、行状や立ち居振る舞いが見事でした。こうして、典型的なセレブとして成長した滕胤は、30歳で孫権の娘を妻に迎え孫呉の外戚となります。

 

三国志とお金の話

 

孫権没後、新帝の補佐役に選ばれる滕胤

孫権に気に入られる孫峻

 

滕胤は、丹陽、呉郡、会稽の太守を務めた後、西暦252年、孫権没後に皇帝に即位した幼少の孫亮の補佐役として、諸葛恪(しょかつかく)、孫峻(そんしゅん)、孫弘(そんこう)と共に選ばれました。間もなく、孫峻は孫弘が諸葛恪誅殺を図っている事を諸葛恪に告げ共同で孫弘を滅ぼし、諸葛恪が権力を握ります。

 

この時、滕胤は特に何もしていませんが、諸葛恪の子の諸葛竦の妻が滕胤の娘だったので、混乱を何事もなく乗り切ります。その後、諸葛恪が合肥を攻めようとすると、滕胤は「今は時期ではない」と反対しますが、諸葛恪に押し切られました。

 

諸葛恪と孫峻

 

結局、諸葛恪の合肥攻めは失敗し、失脚を恐れた諸葛恪は独裁政治に拍車が掛かり、愛想を尽かした孫亮と孫峻が諸葛恪を誅殺し一族を滅ぼします。

 

孫峻政権ではお飾りナンバー2の滕胤

孫峻の専横

 

滕胤は諸葛恪が滅びると、諸葛恪の息子の義父である事を理由に役職を辞そうとしました。しかし、ナンバー2の滕胤が下りると、諸葛恪のような独裁者に見える事を気にした孫俊は辞職を許可せず、表面上は滕胤を敬い実権を与えない方針を取ります。滕胤も、孫峻を滅ぼすような覇気はなく2人の関係は、波風もたたずに上手く行きます。

 

諸葛恪に夢で殴られて死ぬ孫峻

 

ところが、孫峻は度々暗殺計画を立てられ、また俄かに北伐の真似事をして人望を失って精神的に追い詰められ、諸葛恪に殴られる夢を見て衰弱して急死しました。

 

関連記事:孫亮とはどんな人?二宮の変が狂わせた幼帝の人生

関連記事:孫呉の家庭内政争!孫峻はどうして孫綝を後継者にしたの?

孫綝との抗争に敗れ滅ぼされる

孫綝

 

孫峻が死去して従弟の孫綝(そんちん)が侍中・武衛将軍になり権力を掌握すると、雲行きが怪しくなります。呂拠は、この人事に不満を持ち、諸将と連名で滕胤を丞相とするように上奏しました。

 

孫綝は呂拠の動きを察知し、呂拠を牽制(けんせい)して従兄の孫憲に攻撃させ、滕胤には侍中・左将軍である華融(かゆう)と中書丞(ちゅうしょじょう)の丁晏(ていあん)を派遣呂拠を捕縛して武昌に赴く事を伝えます。

 

滕胤は自分もやがて攻め殺されると考え、華融と中書丞の丁晏を軟禁し、兵士を集めて孫綝を討つために、偽の詔(みことのり)を書かせようとします。

 

戦で負ける滕胤(とういん)

 

孫綝は将軍の劉丞に命令し、滕胤を攻撃、滕胤は華融達が偽の詔を書かないので殺害しました。やぶれかぶれになった滕胤は、ひたすら呂拠が援軍に来る事を信じ平素と変わりなく人と談笑して過ごしますが、呂拠が援軍に来る前に城が陥落し、一族は皆殺しにされて滅亡しました。

 

諸葛融に似た人柄がいいだけの人

兵を率いる諸葛融

 

滕胤は家柄がよく血筋がよい「だけ」の名門セレブであったようです。最期の最期で、孫綝ではなく呂拠を信じて反旗を翻しますが、采配は精彩を欠き、偽の詔を出させて兵を集めようとするなど、現実味がない対応が目立ちます。

 

策が敗れると、無様な姿だけは見せまいと平静に振る舞い、頼みは呂拠の援軍のみというのも寂しい話ですし、生き残る為の嗅覚と行動力の無さは、諸葛融に似た点があります。

 

孫権存命の時代なら、公主(こうしゅ)を妻にしている威光で何とかなったのでしょうが、王族同士が割れている乱世では滕胤が生き残れるのは難しかったでしょう。半世紀の治世が過ぎ去り、孫呉においては、ただ家柄だけで生き残れる時代は過去の事になってしまっていました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

滕胤は、孫権の娘を妻とした後に妻と死別し、次には、孫奐の娘を娶っています。これは、孫峻や孫綝に連なる孫堅の弟、孫静の血筋でしたし、孫奐のもう1人の娘は、呂拠に嫁いでいました。

 

滕胤が滅ぼされた時、滕胤の妻だけは、兄の孫壱に救出され後に魏に亡命したようです。呂拠と孫綝にそれぞれ繋がっていた滕胤、最期の最期で切るカードを間違えてしまいましたね。

 

参考文献:正史三国志

 

関連記事:孫峻とはどんな人?小心者で暗殺を回避!でも心を病んで死ぬ小粒悪党

関連記事:諸葛恪と周囲から見た彼の評価、なぜ天才は敬いの気持ちを持てなかったの?

 

英雄の死因

 

 

はじめての三国志を、もっと読みたい方へ
Google検索であなたの優先ソースに登録しておくと、はじ三の記事が上位に出やすくなります。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso編集長

kawauso編集長

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

-はじめての呉
-