三国志の乱世は良くも悪くも実力主義がモノを言う社会でした。それは、三国時代に一切の権威が消滅したというわけではありませんが、最も実力主義を積極的に採用した曹操の魏が中華に覇を唱えた点から見ても、他国に比べ実力で成りあがった人々が多かった事の証拠にはなるでしょう。
身分が低く、後ろ楯を持たず実力のみに頼る人々を寒門あるいは単家と言いますが、今回は魏で成り上がった寒門出身の人物に焦点を当ててみます。
魏略で1つにまとめられた寒門出身者
三国志の時代に活躍し、魏に仕えた政治家で歴史家の魚豢は「魏略」という歴史書を書いて、その中に、徐福 (徐庶)厳幹、奈義、張既 、游楚、梁習 、趙撮 、裂漕 、韓宣 、黄朗 の10人を纏めました。
この10人の共通点は寒門、つまり身分が低く他人の推薦を当てに出来ず、実力で出世した人々という事です。わざわざ、このような列伝で括るには、実力主義の風潮が強い当時でも、身分が低い寒門出身者が成り上がるのが、いかに難しい事かを如実に示しているとも考えられます。
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地元の名士に差別される張既
寒門出身者は、地元に後ろ楯がないばかりか、むしろ地元の名士勢力に迫害を受け差別されるのを回避する必要さえありました。
例えば、魏に仕えた張既は司隸左馮翊高陵県出身の寒門ですが、「家名がない俺が出世するには地元の名士に可愛がってもらうしかない」と決意し、自費で刀筆(ペン)や版奏(ノート)を用意し、上役が刀筆や版奏を切らすと、すかさずプレゼントして名前を覚えてもらおうと涙ぐましい努力をしています。
こうして、次第に知名度を得て中央で出世した張既ですが、故郷では差別が続きました。まだ張既が郡吏だった時、地元名族の徐英という人物が功曹で上役であり、なにかの因縁をつけ張既を鞭で打った事がありました。
その後、張既は徐英を越えて昇進しますが、高陵県では徐英の立場が上であり、張既が左馮翊に戻っても、徐英は挨拶もせず張既を見下して、対等に付き合おうとはしなかったそうです。内心腹立たしいと感じた張既ですが、地方の名士層を怒らせるのは得策ではないとガマンし、傲慢な徐英と交流を続けていました。
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命まで狙われた寒門 薛夏
同じく魏略に登場する薛夏は、姜維と同じ天水の人で寒門ながら「博学にして才あり」という有能な人物として知られていました。
当時の天水郡には姜、閻、任、趙の四姓があり、この四姓が郡の上級職を独占する名族でしたが、薛夏は誇り高く、四家に屈服しようとしないので非常に憎まれる事になります。
四家の迫害が酷くなり、いよいよ天水に居られなくなった薛夏は郷里を離れて魏の都に向かいました。曹操は以前から薛夏の名声を聞いていたので喜んで厚遇します。
しかし、収まらない天水の四姓は都に手を回し囚人を使って薛夏を捕まえ、潁川郡に移して獄に繋ぎました。
曹操はその頃、袁家討伐の最中でしたが「薛夏は無罪である。漢陽の小童どもが殺したがっているだけだ」と言って潁川に通告して薛夏を釈放して丞相軍謀掾とします。
その後も、薛夏は曹丕、曹叡に仕えて信任を得、曹叡の時代に亡くなりますが、曹叡は薛夏の遺体を天水に返すと四姓により辱めを受ける事を気の毒に思い、薛夏の子に亡骸は都で埋葬するように命じています。
地元名族に恨まれると、死んでも受け入れられないという認識が寒門の中にあった事が、曹叡の言葉から浮かび上がりますね。
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一代限りの寒門
このような寒門は自身の才能や、あるいは地元名士層と妥協する事で、勇名を轟かせましたが、2代、3代と名前が続く事はあまりありませんでした。
これは、子孫に有能な人が出なかったという事でもありますが、彼ら個人が名族と結びつけなかったので、次第に重んじられなくなったというのが事実に近いようです。
実力主義が強かった魏でも、名門出身の人材は多くいて、次第に権力の中枢を占めるようになり、成り上がりの寒門との縁組には、あまり乗り気ではありませんでした。
魚豢は、このような寒門の人々について「彼らは、岩の上に根を下ろし、聳え立つ影が千里に届くほどの努力をした。その努力は今日に至っても、並大抵の事ではない」として、僅か1代で消えて行った寒門の人々への哀惜と門閥主義の世間への憤慨を綴っています。
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