今回の記事では、日本の三国志ブームの火付け役となった吉川英治先生の名著『三国志』(以下、「吉川三国志」とします。)と、正史に準拠した新たな解釈の下、日本の三国志作品に新たな地平を開いた北方謙三先生の『三国志』(以下、「北方三国志」とします。)の違いを解説していきたいと思います。
この記事の目次
「吉川三国志」と「北方三国志」の違いその1:演義か正史か
「吉川三国志」と「北方三国志」の最大の違いは、演義に準拠しているか正史に準拠しているか、という点でしょう。
「吉川三国志」は史実を基にした物語である演義に準拠しており、登場人物の活躍の多くが、史実とは異なる創作になっています。とはいえ、著者の吉川英治先生は「吉川三国志」を書くにあたり、非科学的・超自然的な要素はなるべく排除しています。
例えば、演義では赤壁の戦いの前に諸葛亮が天に祈ることで東南の風を吹かせるという描写があります。
この東南の風が吹く場面について「吉川三国志」では、荊州に住んでいた諸葛亮が日頃の経験からこの季節に貿易風が吹く時期を知っていた、と説明しているのです。
一方で、「北方三国志」では後述するように、物語のリアリティを追求するという姿勢で作品がつくられていることもあり、正史に準拠しているのです。とはいえ、完全に正史に基づいているわけではなく、北方謙三先生の独自解釈や、正史には現れない完全なオリジナルキャラクターが多数登場するのです。
「吉川三国志」と「北方三国志」の違いその2:講談かハードボイルドか
「北方三国志」と「吉川三国志」の違いとして次に挙げられるのは、物語のタイプの違いです。
「吉川三国志」は初版が戦前に刊行されたこともあり、言葉遣いなどがやや古風なものとなっており、登場人物の動きやセリフの進行なども講談調でダイナミックかつ小気味よく進んでいきます。
例えば、最序盤の桃園の誓いの場面では、「われらここにあるの三名。同年同月同日に生まるるを希わず、願わくば同年同月同日に死なん」という有名なセリフが飛び出し、満開の桃の花の下、劉備・関羽・張飛が義兄弟たることを誓う様が、ドラマティックに描かれています。
これ以外も、「吉川三国志」では、時にはオーバーだと思えるくらいの登場人物の激しい動きと長いセリフで物語をダイナミックに語っており、あたかも講談や歌劇を見ているような気分にさせられます。
では、「北方三国志」はどうでしょうか。「北方三国志」は1996年に刊行されたこともあり、登場人物はみな現代風の言葉遣いをしています。そして、「北方三国志」は登場人物のセリフや動きのリアリティを追求しており、客観的かつハードボイルドなタッチで物語が進んでいきます。
同じく劉備・関羽・張飛が義兄弟となる場面を例に見ていくと、「北方三国志」ではなんと、「桃園の誓い」の部分がバッサリとカットされています。客観的に考えれば、大の男が3人桃の木の下に集まって、「願わくば同年同月同日に死なん」と言って義兄弟になるというのは、物語のためにつくられた、いささか出来過ぎた話のようにも思えます。
だからこそ、「北方三国志」では「桃園の誓い」はカットされており、馬を運ぶ任務の中で劉備・関羽・張飛の三人が偶然出会い、信義を重んじる劉備の侠気に感銘を受けた関羽と張飛が劉備の義弟となるという展開で物語が進んでいきます。
こうしたところに、リアリティを追求する「北方三国志」の特徴が表れています。
このように「北方三国志」は、著者の北方謙三先生が日本を代表するハードボイルドの巨匠ということもあり、ハードボイルド小説のように重々しいタッチで物語が進行していきます。
そこには「吉川三国志」のようなダイナミックさや明るさはないものの、その物語はリアルかつ重厚で、まるで映画を見ているような気分で読むことができます。
関連記事:吉川三国志にも劣らない!曹操が関羽を漢寿亭侯に任命した理由が粋すぎる!
「吉川三国志」と「北方三国志」の違いその3:物語重視か人物重視か
「吉川三国志」は物語である演義に準拠していることもあり、基本的には物語の展開そのものや登場人物の英雄たちの一騎当千の活躍を魅せることに重きを置いています。
だからこそ、個々の登場人物の心の動きなどはあまり描写されていません。つまり、「吉川三国志」の登場人物たちは、まるで舞台役者のように吉川先生が書いたセリフを語り、戦場で大立ち回りを演じる駒なのです。
だからこそ、「吉川三国志」では読者が登場人物に感情移入するというよりは、「吉川三国志」という舞台上での超人的な英雄たちの活躍を、読者たちが観客席から見守るという構造になっていると言えるでしょう。
例えば、「吉川三国志」の中盤から終盤にかけての主役に諸葛亮(以下、「孔明」とします。)が出てきます。「吉川三国志」の孔明は、まるで未来を見通しているかのような智謀を振るう、まさに超人的軍師として描かれています。
しかし、「吉川三国志」では孔明自身の心中描写は登場しません。読者は、ひたすら並み居る敵を天才的な計略で破っていく孔明の大活躍に心を躍らせ、喝采を送るのです。
しかし、「物語」である演義ではなく、「歴史書」である正史に準拠する「北方三国志」には明確な主人公はいません。
つまり、「北方三国志」は劉備・関羽・張飛・曹操・孫権・呂布・諸葛亮・馬超・張衛といった主要な登場人物たちが織り成す群像劇ともいえるのです。
さらに言えば、正史に準拠し、リアリティを追求する「北方三国志」では一騎当千の英雄も神算鬼謀の軍師も登場せず、演義に見られるような、英雄豪傑が単騎で敵の大軍と戦い、一騎打ちで敵将を討ち取るといった場面もあまり登場しません。
その代わり、「北方三国志」では登場人物の内面の描写に非常に重きが置かれています。登場人物の喜怒哀楽や信念、誇りなどが、彼らの心の動きとともにきめ細やかに表現されているのです。
例えば、完璧な天才として描かれる「吉川三国志」の孔明に対し、「北方三国志」の孔明は天才的な智謀を内に秘めていながらも、荊州の片田舎に逼塞して出世できないことを嘆く悩み多き人物として描かれています。
そして、漢王朝再興という劉備の志にひかれた孔明は劉備に仕えるのです。しかし、その後も孔明は持ち前の知略を存分に発揮しながらも、完璧な超人としては描かれません。
漢中攻防戦では、40万という曹操の大軍を前に己を見失い、劉備にたしなめられる一幕があり、物語終盤では主君にして自らの同志であった劉備を失った孤独に苦しみ、馬謖の失策や魏延との確執に悩む孔明の姿が克明に描かれているのです。
このように、「北方三国志」の登場人物は読者と同じ喜怒哀楽を持った人間として描かれています。だからこそ、「北方三国志」を読めば、きっと登場人物に感情移入することができるのです。
そして、物語の終盤に差し掛かる第9巻以降では関羽や張飛、曹操といった英雄たちが次々と亡くなっていきます。
「北方三国志」を彩った英雄たちの死の場面は、物語全体を通じて彼らの心の動きや思いを深く感じることができるからこそ、涙なくしては見られない物語のクライマックスとなっているのです。
関連記事:日本人にとっての『三国志』の原点……吉川英治『三国志』
関連記事:【痛恨の極み】吉川英治さん、どうしてあの三国志の迷シーンを復活させちゃったの?
三国志ライタAlst49の独り言
以上、「吉川三国志」と「北方三国志」の違いをまとめてきましたが、いかがだったでしょうか。
英雄たちの活躍と物語のダイナミックさに主眼を置いた「吉川三国志」に対し、「北方三国志」ではリアリティを追求し、登場人物の内面を描き出すことに力を入れています。
「三国志」というコンテンツに対し、それぞれ別々の切り口から挑戦したこの二つの作品はどちらも日本を代表する名著と言えるでしょう。どちらかしか読んだことがないという方は、ぜひ読んだことのない方の作品を手に取り、自分のこれまで知らなかった新たな物語に触れてみてはいかがでしょうか。
関連記事:「北方三国志」の主要登場人物一覧、これでより北方三国志を楽しめる!
関連記事:北方謙三先生の作品『三国志』の特徴とは?